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雨の桶狭間駅にて

 6月の淡い雨が、駅舎の屋根を静かに打っている。

 打ち合わせ先ために桶狭間の駅に降り立った私は、駅舎の軒先で雨が止むのを待っていた。小さな雨粒の薄い雨。走ればそれほど濡れないような気もするが、打ち合わせまでの時間にはまだ余裕もある。入社時から使っている黒い革のビジネスバッグを抱えながら、私は雨空を見上げたり、向かい側あるタバコ屋のシャッターに描かれた落書き(狩野派風の落書きだ)を見たりしながら、雨が止むのを待っていた。

 就職してから数年。尾張の小さな店舗に配属されて、近隣の大名に営業してまわる単調な日々に、私は嫌気がさすほどではないが、どこか気の入らない日々を過ごしていた。大きなプロジェクトを成し遂げて天下に名を馳せる。入社当時にもっていたそんな夢や情熱は、この片田舎での営業の日々に、いま降っている淡い雨のようにぼうっと滲んで薄れいていってしまった。どこに天下への道はあるのだろうか?

 視界の隅に白いソックスが目に入る。同じ軒先、5尺(1.5m)ほど隣に高校生が立っているのに私は気がついた。彼女も同じように空を見上げながら雨宿りをしている。色白な彼女は、雅な公家風の制服を着ている。中学生にも見えるほど幼い顔立ちだが、学校の指定カバンなのであろうそれには「今川高校」と書かれている。横目で見ていた私に気づいて、その女子高生も横目でこちらをみる。凛とした引眉が目に映る。彼女はほんの少しだけ首をかしげながら私に会釈した。私もつられて会釈をする。二人はまた、どこともなく前を見つめながら雨宿りを継続する。

 社会人になる前は、特に何かを好きになって打ち込むわけでもなく、何かを嫌って反発するわけでもなく、ただ平凡で平坦な毎日を過ごしていた。親や親戚からは冗談めいたトーンで「うつけ男子にならないように気をつけろよ」とよく言われた。テレビでよく聞かれる言葉を、そのまま鵜呑みにして親族の集まりの場の肴に話す親たちに辟易したけれど、反発するほどの何かも持てなかった。うつけと言われればうつけかもしれない。自分でそう感じてしまったことが、なんだか恥ずかしかった。

 去年父が亡くなった時、焼香をあげながら思い浮かんだのは、父が私をうつけと呼んだ時にみせた、失望と心配を混ぜたあの顔だった。父親は教育熱心で、私は小さな頃から多くの習い事を嗜んだ。でもどれもあまり気が入らず、すぐにやめてしまうことが多かった。和歌、書、鷹狩り、流鏑馬。どれもこれもそれなりに身に着けて、でも何にもならずに終えてしまったものばかりだ。相撲だけは面白かったが、その世界で生きていこうとも到底思えなかった。何もかもに中途半端な自分を、父親はいつもあの顔で見ていた。どうせなら葬式で焼香を投げつけたくなるほど、怒鳴ってくれればよかったのに。

「雨、止まないですね」

 隣で空を見上げなら公家女子高生が言う。雨は相変わらず薄いカーテンのように、目の前を白く染めていて、駅前には私たちと客待ちの籠屋くらいしかいない。私も彼女と同じように空を見上げる。

「ええ、そうですね」

 変なおじさんだと思われないように、努めて普通のトーンで答える。見知らぬおじさんに声をかけるのはやめたほうがよい、と私は思う。このご時世だし。二人の間を雨音が静かに埋めていく。

「レッスンの時間に遅れちゃいそうです」

 レッスン。和歌だろうか。ピアノか鷹狩だろうか。それともか能かバレエだろうか。かつて何もなし得なかった自分の姿を思い浮かべたが、目の前にいる彼女の夢に満ちた姿とは似ても似つかないものだった。

「私、公家になりたくてがんばってるんです」

 そう言われてはじめて彼女をしっかりと見る。確かに風体は公家風で、透き通る白い肌とコントラストになった引眉は、公家そのものだ。その引眉の下で前を見つめる彼女の瞳は小さくも力強く輝いていて、私にはその眼差しがあっぱれなほど眩しかった。

 公家の世界は厳しい。雅であるか、高貴であるか、後天的に身につくものではない要素に左右される、厳しい世界だ。彼女が本当に公家になれるのかに思いを巡らせる。やがて次の神輿に乗って駅入ってくる。

「じゃ、私、いきますね」

 彼女が私の方を見つめ笑顔でそう言うと、引眉がクシャりハの字に曲がった。彼女は持っていたカバンを頭にかかげながら、雨粒の中を駆け出していった。自由に伸びやかに、まるでダンスでも踊るように、彼女は雨のなかを道にタバコ屋の向こう側にかけていく。私はその瞬間をいまでもスローモーションのように記憶している。五十年のなかで一番美しい記憶。

私はまだ駅の軒先で雨が止むのを待っている。


 
 打ち合わせは負け戦だった。

 会議を終えたのは未の刻を過ぎた頃だった。遅い昼食を取ろうと私は店を探す。駅前にほんの少しだけある店はどこもランチ営業を終えすでに看板を下げている。コンビニエンスストアを横目に見ながら、私はもう少しだけ路地を探す。とにかくゆっくりと座って食べたい。

 細い角を二度曲がると看板が見えた。南蛮茶館。カフェか食堂か居酒屋かの区別がつかないその店は、この時間でも「OPEN」の立て札が店の前に立っていた。ドアの窓には茶色い色が入っていて店内の様子は伺いしれないが、私は扉を開けた。

 薄暗い石造り店内には客はほとんどいなかった。テーブル席で築城作業中であろう人夫の二人組が飯を食べていて、二人とも黙々と飯を口に運んでいる。一つ離れたテーブルには、仕事をサボっているのであろう虚無僧が笠をとって茶を飲んでいる。カウンター越しに見える厨房には、ヒゲを生やして髪をトンスラにした主人が立っており、首元にかかっている十字架のネックスが妙に不似合いで目に入る。カウンター席の一番奥には、肘を付きながらテレビをみている女将(らしき人物)がいて、こちらを一瞥するなり「いらっしゃいませ」と面倒そうに発してから、水を汲み始めた。

 カウンターに座った私は、古びた巻物を広げてメニューを確認する。メニューには南蛮料理が並んでいる。焼き魚のコクトヒス、油揚げ魚のハクトヒス、猪の股丸焼きのフラートハルコ。どれもどんな料理か私には想像がつかなかったが、きょうのおすすめの項にあった「店主の気まぐれ南蛮・チキン南蛮セット」だけが唯一私にわかる料理だった。「チキン南蛮を」と頼むと、主人は返事もせずに料理を作りはじめた。

 店内のテレビでは、地域の年貢の納め度合いを報じるニュースや、地元の高校が地方予選の合戦でコールド勝ちを収めたニュースが流れている。地元の銀行のCMが流れ(行員が出演するやつだ)、CMと番組の違いは大してなく曖昧で全てがフィクションのように感じた。メロディにのせて歌われる知らない街の市外局番が、どんな和歌よりも記憶に残る気がした。

 チキン南蛮が目の前に配される。

 山と盛られたキャベツに、脂のしたたる鶏肉、それにたっぷりとタルタルソースがかけられている。共に出されたご飯は異様なほど大盛りだった。部活か。箸をつけはじめた私は、その脂と量に辟易しながらも箸を進めていく。食えど食えどメシは減らない。「店主の気まぐれ」の気まぐれ加減に腹を立てながら、私は黙々と箸を進め、ようやく皿が空になった頃には、呼吸が浅くなるほど腹が膨れた。また負けいくさ。

 テレビでは相変わらず映像が流れている。膨満感を誤魔化すために茶をすすりながらまたため息つく。その時、テレビの場面が切り替わり、そこに映っていのは私が今朝見た女の子だった。

 それは地元にある高校の部活を紹介する情報番組のコーナーだった。女性のリポーターが、公家部の練習風景を紹介していた。円になって声を出しながら蹴鞠の素振り(素振りというのだろうか、とにかく鞠は使っていなかった)をしたり、皆でグランドに横一列に並んで和歌を詠む練習をしている。「そんなことじゃ公家になれないぞ」と顧問であろう人物から激が飛んでいる。地方予選大会を控え、部員代表としてインタビューを受けていたのが、私が今朝朝見た女子生徒だった。

 彼女はこの春から部長に任命されたとテロップには書かれている。「初心者として入部した自分が部長に選ばれて、期待に応えたい気持ちと、不安な気持ちの両方がある」と彼女は話している。高校から公家を目指して入部し、人一倍練習しているものの、まだまだ出来ないことばかりだと彼女は言う。練習は毎日過酷で、全国大会への道は険しい、と。「でも、ずっと憧れていた公家になるためならツラいとは思いません」と、彼女は凛とした表情でカメラに向かって話している。その目の輝きが私には眩しかった。

 部活を紹介する映像がしばらく続き、最後に友だちのチームメート(公家メートと言うらしい)と一緒に、もう一度彼女が登場し「この中で馬に乗れないのは私だけなんです」と笑いながら話している場面でそのコーナーは終わった。番組は明日の合戦場天気のコーナーに進んでいる。私は晴れや雨のアイコンを眺めながら、今見た彼女の姿を思い返していた。

 会計を済ませ外に出ると、雨がまた降り出していた。ただ雲は薄く、日差しもあるおかげで街は色味は明るい。天気雨だ。日差しのなかでキラキラと光る雨粒が、さっきの彼女の瞳のように輝いて見える。彼女の瞳を思い返すと、私は自分の悩みがとても小さく矮小なものではないかと感じた。

 私は雨のなかに一歩踏み出してみた。月代を雨が打つ。屋根のない世界は雨に濡れるが、同時に自由を肌で感じられるような気もした。私はその雨の中で、熱盛を舞ってみた。その瞬間、私は自由で、私は天下人だった。

 雨が静かにふる桶狭間駅の駅前で、熱盛を舞った信長は、思ったよりずいぶんと濡れてしまったのである。

おわり


おまけ豆知識①「桶狭間の戦い」
桶狭間で織田信長が今川義元を破った合戦のことだよ!義元の率いる軍勢は2万5千に対して、信長の率いる軍勢はたったの3千。戦国時代で最も有名な番狂わせのひとつと呼ばれているよ!

おまけ豆知識②「織田信長」
尾張の武将だよ。今川義元を破ったあと、甲斐の武田勝頼などを破り天下統一の目前まで迫ったけれども、最後は明智光秀の謀反で討たれちゃったよ。残念だね!

おまけ豆知識③「今川義元」
駿河の戦国大名だよ。「海道一の弓取り」と呼ばれるほど猛者だったんだよ。公家かぶれのイメージが強いね!作中では女性だけど男性だよ!


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こういうのが載ってる同人誌もあるよ!おまけもつくよ!

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