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胸骨正中切開で縦隔腫瘍を摘出した話(8:術後1日目)

レントゲン

レントゲンを撮りに行くためには車椅子に座らなければならない。
そしてレントゲンが終わればそのまま一般病棟に直行だ。ようやく地獄のICUから解放される……と思っていた。
車椅子に座るためにベッドが電動で上体を起こしてくれるのだが、脳の血液が一気に下がった感覚と共に猛烈な吐き気が襲ってきた。
本能で「気持ち悪い。吐きます」と言った瞬間、盛大にえずいた。
看護師さんがすかさずそら豆型のトレーを持ってきてくれて口元にあてがうが、24時間以上水すら飲んでいない状態なので出るものは何も無く、ゲーゲーと盛大にえづきながら苦しむだけだった。
ちなみにこのそら豆型のトレー、名前を「膿盆(のうぼん)」と言う。顔や身体に密着しやすいようにそら豆型をしており、文字通り膿や吐瀉物を受け止める医療器具だ。
「これは車椅子は無理だな……」と男性看護師が諦めたように言った。
そういえば一昨日の麻酔科医の説明の中で、副作用で吐き気が出る人もいると言っていたことを思い出した。多少気持ち悪くなるくらいかなと思っていたが、まさかここまで顕著に出るとは……。
しかもこちらは鎖骨の間から鳩尾まで肉と骨を30cm以上切っているので、えずくたびに胸に激痛が走る。
「ごめんね、ごめんね。痛いよね? 苦しいよね?」と女性の看護師が背中をさすってくれるが、もう訳がわからないほど痛いし苦しい。猛烈な船酔いのような気持ち悪さだ。軍艦島へ上陸するために乗った船も酷い揺れだったが、ここまで気持ち悪くはならなかった。
これはレントゲンはナシでICUにもう一泊かなと思っていたが、なんとベッドごとレントゲン室まで移動すると言う。
自分が少し落ち着いたところで3人がかりでベッドを押し、手術室に向かった時と同じ大きなエレベーターに乗り込む。レントゲン室は1階。今の自分にとってエレベーターは遊園地のフリーフォールである。エレベーターが下降すると、わずかな重力の変化で再び猛烈な吐き気に襲われた。
多数の一般外来の方の間をゲーゲー大騒ぎしながらベッドで運ばれる自分はさぞ重病人に見えたことだろう(実際重病人なのだが)。意識も朦朧としていて、気がついたらレントゲン室の中にいた。
「これは寝たままで撮るしかないですね……。胸部でいいんですよね?」とレントゲン技師が言ったことがうっすらと記憶にあるが、その後は意識を失ったようだ。

一般病棟へ

気がついたらエレベーターの中でまたゲーゲーしていた。どうやらレントゲンは終わったらしい。一般病棟のある階まで上昇しているため、重力が変わって強い吐き気で目が覚めたようだ。ICUに戻ることはなかったが、こんな状態で一般病棟に戻ってどうなるのだろうと苦しみながら思った。
手術前にいた部屋に入ると、一般病棟の看護師さんも手伝い四人がかりでICUのベッドから病室のベッドに移動させる。よくドラマで見る「せーのっ!」という掛け声とともにシーツを持って患者を移し替えるやつだ。まさか自分がされるとは思ってもいなかった。
ここからは寝ているというよりは、半ば失神しているような状態だった。何回か看護師さんが来て、傷の具合や血圧を測った気がするが、定かではない。
昼になると「55さーん昼食でーす。名前と生年月日を言ってください」と言って看護師さんが昼食を持ってきてくれた。そういえば食事は手術翌日の昼食からと言っていたか。正直「この状態でメシなんか食えるかよ……」と思ったが、せっかく持ってきてくれたのだからと消えいるような声で答え、また失神。1時間ほど経ったあたりで「食べないんですかー?」と言われたので、頷いて下げてもらった。
担当医の新人医師も何回か来てくれたが、正直何を話したのか覚えていない。
リハビリ科のやけに明るい男性も来てくれたが、自分の朦朧とした状態を見てギョッとした。
「55さん大丈夫ですか……?」
黙って首を振る。
「今日の目標は20m歩くことなんですけど……」
黙って首を振る。
「……とりあえず起きてみましょうか」
リハビリ科の男性がベッドを起こすが、とにかく気持ち悪い。
「……顔色がめちゃくちゃ悪いし、脂汗も出てますね。自律神経が拒否している証拠です。無理に動かすとかえって危険なので、今日はやめておきましょう」
リハビリはしなくて済んだが、とにかく自分の身体が自分のものではないような感覚だ。高熱が出た状態に近いし、実際に術後は熱も上がる。
左手は相変わらず麻酔薬を追加するボタンを握っていた。幸い痛みは我慢できないほどではなかったし、何より麻酔薬を追加して再びあの地獄のような吐き気に襲われるのが怖かったので押さなかった。

麻酔科医

15時頃だろうか、女性の麻酔科医がやってきた。
状態を見るなり「あー、麻酔が合わなかったですね」と言った。どうやら吐き気が出ることは珍し事ではないらしい。また、傷の状態や血圧などを見る限り現在の不調は完全に麻酔の副作用であり、術後の経過としては良好だそうだ。
麻酔科医が点滴を見ると、「あれ?」と驚いたようにこちらを見た。
「55さん、今日は1回も麻酔追加のボタン押してないんですか?」
「押すと気持ち悪くなってしまうので……」
「押さなくて大丈夫ですか? 痛みは耐えられます?」
「痛いことは痛いですが、耐えられないほどではないです。むしろ想像していたよりも痛くないです」
「うーん、それなら思い切って麻酔減らしてみましょうか。むしろ副作用の方が辛い感じですし」
「えっ? 大丈夫なんですかそれ……?」
「今の状態だと薬も飲めないでしょう? 常時注入する麻酔の量を半分にして、落ち着いたあたりで経口の痛み止めを飲んだ方が副作用もなくなって楽になると思いますよ」
不安だったが、その通りにしてもらった。
幸い痛みの強さはほとんど変わらず、夕方には嘘のように吐き気が無くなった。吐き気がないというだけでこれほど楽なのか。夕食が運ばれてきて、食欲はまだ無かったが治るためと思いなんとか半分程度は食べることができた。
ここから劇的に回復することになる。

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