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胸骨正中切開で縦隔腫瘍を摘出した話(7:ICU)

手術終了

深海から海面にゆっくりと浮上するように意識が戻った。
白い天井と口から伸びるホースがぼんやりと見える。
寝起きのような眠気は全く無いが、目はまだ霞んでいてよく見えない。
ああ、終わったんだなと思った。
痛みは全く無い。
何時間経ったのかもわからない。
呼吸器外科の医師の姿は見えず、男性の麻酔科医が1人視界の隅に映っている。
入院前に読んだ体験談では「時間がワープした」「まばたきしたと思ったら終わっていた」というように意識の連続性が保たれているような体験が多かったが、自分は意識を失った瞬間と戻った瞬間をしっかりと覚えていた。
意外と体験談は当てにならないものだなと思ったのも束の間、「お疲れ様です。今から喉の管を抜きますね」と、麻酔科医が言った。
意識が早く戻りすぎたと焦った。
昨日受けた説明が蘇る。1/3が抜管の前に意識が戻って苦しがると言っていたが、どうやらその中に入ってしまったらしい。しかし、自分の杞憂をよそに気管に挿入された管は「ぬるり」という感覚と共に問題なく抜けた。苦しさは全く無かった。安心感からか、また意識が遠のいていった。

ICU

気がついたら、いつの間にかICUに運ばれていた。立会人と何か喋った気がするが特に覚えていない。呼吸器外科の担当医(新人)も来た気がするが、定かではない。また意識が遠のき、気がついたら部屋は真っ暗になっていた。
計器類のランプが宇宙船のように見える。
身体からは点滴2本、ドレーンが2本(手術後に体内に溜まる血液や体液を排出するための管。自分はへその上と右肋骨の間に入れられていた)、尿管、血圧計、パルキシオキシメーターなど様々な管が出ていた。両足にも血栓防止のためのマッサージ機が巻かれ、定期的にプシュー、プシューと稼働してふくらはぎのあたりを圧迫する。寝返りもできそうもない。
しばらくするとICUの男性看護師が来て「55さん、大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。声が出ないのでうなずく。
「右手に握っているスイッチがナースコールです。左手のスイッチは押すと点滴から痛み止めが追加で出てきます。痛い時は我慢せずに押してください」
「……痛み止めの回数制限はあるんですか?」と掠れた声で聞いてみた。
「特にありません。遠慮しないで痛かったら押してください。明日は朝10時にレントゲンを撮りますので、それまでゆっくりしてください。看護師が車椅子で迎えに来ますので」
男性看護師が去ると、ようやく周囲が把握できた。
真っ暗で窓も無い、とても狭い空間だ。時計も無く、今何時なのかもわからない。様々な計器類があちこちで音を立てている。このフロアに何人いるのかわからないが、左の仕切り越しに寝ている男性が凄まじいイビキをかいているので、少なくとも自分含め2人はいるはずだ。
先程の男性看護師がドレーンから出る廃液の様子を見に来たので、今何時か聞いてみた。「夜8時です」と答えた。深夜だと思っていたので意外と早い時間だった。
心配していた痛みは悶絶するほどではない。傷はもちろん見えないが、鎖骨の間から鳩尾までを切って、胸骨まで縦割りにしているのにこんなものかと思った。しかし時間が経つと麻酔が切れてきたのか、ズキズキと胸のあたりから徐々に痛みが広がってきた。左手に握っているボタンを押すと、点滴につながっている機械がキュイッ……ペコッ……ペコッ……と音を立てて作動する。ペコッ……という音は8回ほど続いた。どうやらこの時に麻酔薬が注入されるらしい。その後、痛みが強くなるたびにボタンを押した。後日聞いた話だが、自分はこの夜16回もボタンを押したらしので、それなりに痛かったのだろう。

それにしても隣の男性はうるさい。
それまで凄まじいイビキをかいていたと思ったら、今度は「痛ててててて!」と叫びだした。痛み止めのボタンを押したらしく、キュイッ……ペコッ……ペコッ……という音が聞こえ、再び凄まじいイビキが鳴り響いた。よくこんな環境でここまで豪快に眠れるものだなと感心する。自分はといえば、うつらうつらしてきても痛みで起きる。痛くなくても身体中の管の違和感や、隣の人のイビキで起きる。かなり時間が経ったと思い看護師に時間を聞いたら「9時」と言われて絶望した。もう12時をまわったかと思ったが、1時間しか経っていなかった。
看護師は床ずれを起こさないように時々身体の向きを変えてくれるほか、尿量や体温の確認に頻繁に訪れる。僕はその度に時間を聞いたが、時間は1全く進まない。隣の男性のイビキはますます激しくなる。僕はいよいよ「隣の人のイビキがうるさいので、部屋を変えてもらえませんか?」と看護師に言おうかと思ったが、無駄な気がして諦めた。部屋を変えてもらったところで眠れるとは思えなかったからだ。
「何もしないで寝ているだけ」ということがこれほど苦痛だとは思わなかった。
真っ暗な部屋で何時かもわからず、スマホやテレビが見られるわけでもなく(もちろん見る余裕なんて無いが)、身体中に管を入れられたまま痛みに耐えてひたすら朝を待つ。
文字で書くと大したことがないように思えるが、これがかなり辛い。多くのICU体験記には「地獄」と書いてあったが、なるほど確かにこれは地獄かもしれない。体験記に多く書かれている「喉の渇き」「極端な暑さ(寒さ)」「悶絶するような痛み」は幸い自分は感じなかったのでまだマシな方だと思うが、それでもかなり辛かった。昨今コロナの影響で、意識のある状態で人工呼吸器をつけたままICUに数十日入っている方も多いと聞く。半日とはいえICUを体験した身としては想像しただけで恐ろしい。

朝4時過ぎになって、ようやく6時頃まで眠ることができた。あと4時間でレントゲを撮れば一般病棟に移れる。
しばらく朦朧としていると、車椅子を押しながら一般病棟の女性看護師が来て、「55さん、10時になったのでレントゲンを撮りに行きますね。その後は手術前にいたお部屋に戻れますから」と言った。
自分にとっては救いの声に聞こえた。
やっとこの地獄から抜け出して一般病棟に戻れるのだ。
しかし、本当の地獄はここからだった。

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