人間は神と格闘技をする。
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 創世記 32:23-27 新共同訳
ヤコブは弱く偏りがある、これぞ人間という嫌味な魅力がある。生まれつき聡明なヤコブは母親に溺愛されて育ち、粗野な長兄エサウを巧みに誘導して長男の権利を奪う。それだけにとどまらない。ヤコブは母の言うとおり行動し、死の床にある盲目の父をも騙して兄になりすます。そして父からの長兄としての祝福を取りつけ、兄エサウが相続するはずだった全財産をも横取りしてしまう。こうして兄エサウは弟ヤコブに殺意を抱くようになり、ヤコブは母方の叔父のもとへ逃亡する。
頭が切れ、人を騙すこと巧みであったヤコブ。逃亡するとはいっても、人も世も舐めてかかっていただろう。だが寄留先の叔父はブラック企業の社長よろしく、ヤコブとの約束を破り、彼を騙して酷使し、20年もの長きに渡って彼を隷属させた。叔父はヤコブの太刀打ちできる相手ではなかった。まったく思い通りにならない逆境のなかでヤコブは、かつて人を騙すことに浪費していた知恵を、こんどは自分が生き延びるために使い始める。世も人も舐めていた彼が、世や人の厳しさを知り、成長してゆく場面は読み応えがある。これが聖典であるなどということを忘れてしまうほど面白い。最終的にヤコブは叔父のもとを出奔するのだが、彼を追跡する叔父と彼との駆け引き、そのスリル満点さは映画『ゴッドファーザー』シリーズを観ているかのようだ。
叔父のもとを去り、20年ぶりに帰郷しようとするヤコブの前には、あの兄、エサウがいる。エサウと接触せずに帰郷することは不可能。どうしても、この兄と再び会わなければならない────その前夜の、冒頭の聖書箇所である。彼は家族や付き人たちを先に行かせ、たった独り残る。兄エサウとの交渉、こればっかりは誰に頼ることも、代わってもらうこともできない。彼は父を、そして兄を騙したことの決着を、20年ぶりにつけなければならないのだ。交渉が決裂すれば、兄に殺される────彼は負い目を独りで負う。そんな彼の祈りは、闘いである。
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