コスチュームでプレイする

「お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」 ファラオはヨセフに向かって、「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、 印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。  
                     創世記 41:40-42 新共同訳

こんにち、たとえば誰かがブルックスブラザーズのいちばん上等なスーツを身に纏い「わたしはアメリカ合衆国大統領である」と僭称したとしても、失笑されるだけであろう。というのも現代であれば誰でも、なんらかのメディアをとおしてトランプ大統領の顔を知っているからである。それがプーチン大統領であれ習近平主席であれ安倍晋三首相であれ、結果は同じことだ。彼らの服装を真似てみたところで、顔が似ていなければ相手にもされない。そっくりだったらそっくりだったで、芸としては驚かれるが、動画その他とのわずかな相違でモノマネであることはすぐに気づかれるだろう。

しかしほんの戦前まで、たとえば日本でも、自分たちの首相の顔をよく知っている人は少なかった。新聞に載る写真も印刷技術の限界から粗かった。二・二六事件の折、決起した兵士たちは岡田啓介首相を暗殺しようとして誤認し、松尾伝蔵大佐を殺害したという。新聞の写真程度では岡田首相と松尾大佐との細かな特徴の差異など判別できなかったのであろう。ウィキペディアには二人が並んだ写真が掲載されているが、今日の我々の眼からは、二人が似ているとはとても思えない。そもそも首相の写真が載った新聞それ自体、読んでいた者は少なかったのかもしれない。彼らが頼りにしたのは、わずかな顔の特徴(頭が禿げている等)と、あとは同伴者(土井清松巡査)の有無や服装であろう。

戦前でさえそのようであったのだ。まして長い人間の歴史のなかで、民衆が支配者の顔を知ることなど、ほとんどあり得なかったはずである。今回、ソースを残念ながら発見できなかったが、以前にネットの記事で、たしかプロイセンの王が狩の最中、ばったり地元の農民と遭遇したエピソードを読んだことがある。王の服装が狩猟用の簡素なもので、従者もほとんど連れていなかったため、農民たちは彼が王であるとは気づかなかった。彼らは王にひれ伏すどころか、気軽に挨拶して道案内をしてやったという。豪華な服装や多数の従者などの象徴がなければ、人々は彼が王であるとは気づかないし、王自身もまた、たった独りでは自らの権力を人々に証明することができなかったのである。

「現代ならメディアをとおして誰でも権力者の姿を知っている」と言ったけれども、もしかすると現代でもそれは違うのかもしれない。もしも安倍晋三首相がわたしの教会にたった独りで遊びに来て「安倍です」と名乗ったとして、わたしは彼が本物であっても彼だとは気づかず、また信じようとはしないだろう。そっくりさんによるいたずらだと思いこんでしまう。まして彼がTシャツにジーンズといった格好であればなおさらだ。ニュースをとおして観るという行為、このメディアとわたしとの距離感が、近代までの人々にとっての仰々しい服装や幾多もの従者たちにあたる、権力者の証明なのかもしれない。

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