統合しきれない言葉

「わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。」使徒言行録 22:7

「私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。」使徒言行録 26:14

いずれも新共同訳

むかしミハイル・バフチンという人の本で「多声的」という言葉を知った。彼によると、ドストエフスキーの小説に出てくる登場人物たちは小説の主題に従属していないという。登場人物たちは、それぞれが自由に、好き勝手に振る舞う。そして彼らの言葉や行為はしばしば物語の、いわゆる「本筋」からは逸脱する。つまり全体としての「この物語の趣旨はこうでした」には決して収まることのない、多くの生きた声が響いているのだ。一方で他の作家の作品ではしばしば作者のメッセージが優先されるあまり、登場人物はそのメッセージを伝えるための道具になってしまうことがある。このようなバフチンの指摘は新鮮であり、興味を惹いた。

わたしたちは世界のなかで生きている。ところで、わたしにとって、世界とはアニメの設定資料集のようなものだろうか。わたしは若い頃、何かのアニメのファンになると、設定資料集まで買ってしまうことがあった。優れた作品ほど詳細な設定がなされている。世界観の設定やキャラクターの性格設定など、読んで眺めて想像するだけでも楽しかった。

しかし、一人あるいは複数人の人間が考える世界観には限界もある。たとえば、あるSFのなかで一つの惑星は貿易が盛ん、別のある惑星はギャンブルの星みたいになっていたりする。だが地球を考えれば分かることだが、地球一個だけで、一人の人間が一生かかっても知り得ないほどの特徴にあふれかえっている。一つの惑星という広大な空間が、「貿易」とか「ギャンブル」とかいった一つの性格にまとめあげられるというのは、よく考えてみれば無理がある。一つの惑星のなかに「ええ!?そんな文化が存在するのか!」というような他者との遭遇が起こる。もちろん、そんなことを考えていたら、そもそも物語の設定をすることなど不可能だろう。作品制作は世界の複雑性を前に立ち往生する。

キャラクター設定にしてもそうである。あのドストエフスキーでさえ、どれほど多声的でリアルな人間造形をしていたとしても、やはり実際の人間にはかなわないだろう。現実に生きているたった一人の人間でさえ、そのすべてを文字にすることはできない。ドストエフスキーは人間の膨大な特徴のなかで、多声的な活気を残せるだけの、物語に必要最低限な言葉のみを選び抜いたのだ。

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