それは天が記憶すること

初任地に元牧師夫人がいた。わたしが赴任した時点で、その方のおつれあいは亡くなられていた。だが、おつれあいが亡くなられる前から、彼女は元牧師夫人であった。

つまり彼女の夫は、生前から元牧師だったのである。隠退して元牧師になったのではなく、若くして牧師を辞めたのである。彼は牧師として伝道を志したが、餓死するほどの窮乏にあえぎ、はらわたが千切れる思いで牧師業を断念したのである。

たいていの教会には「創立〇〇年史」という題の、教会創立からその冊子の発行時点までの教会史が書かれた書物がある。日本の教会には司書や学芸員のようなスタッフはほぼいない。だから一区切りの時代ごとに、その時点で存命の教会員による証言を集めて史料集を作るのである。そうすることで、仮に原史料が散逸したとしても、冊子さえ残っていれば教会の歴史を後世に伝えることができる。

教会史にはその教会の創立者の名が記され、歴代の牧師の名前も載っている。教会の活動に資した、主だった信徒たちの活動の記録もある。そして、たいていの教会史には、次のような表現がなされる。
「主なる神の導きによって、今日まで歩んでくることができました」

そう、こうした教会史を残すことができるのは、神の導きによって今日まで歩んでくることができた教会である。だが、おそらくそれは、膨大な伝道の失敗や挫折のなかの、ほんの一握りの教会であることを、わたしは忘れない。決して忘れはしない。残念ながら失敗に終わった伝道、教会として体を成す以前に解散してしまった集会などの記録は、後世に残ることはない。記録など残す余裕がないからである。また、ネガティヴな体験を、人は後世に語り継ごうとはしないものである。

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