教会の重たいベンチ


おととしにこの記事を読み、たいへん感銘を受けた。というのもその当時、わが小さな教会で起こり始めていたことの本質を、この記事に紹介されている歴史がみごとに言い表していると感じられたからである。

最近は教会も重たいベンチを嫌うようになった。掃除の際に移動させるのがたいへんだからである。わたしもアンチベンチ派だった。新築されたばかりの教会を訪問すると、よくプラスチック製の軽い椅子が備えられている。ベンチではなく、一人ずつ座る椅子である。流線型だったりメッシュだったりかたちはさまざまだが、明らかにベンチよりも座り心地がよい。高齢者の健康にはこちらのほうがよいのかもしれないほどである。そしてこのような椅子は重ねて片付けられるので、余った椅子を収納するのにも場所をとらず便利である。ベンチはそうはいかない。

それともう一つ、心理的な効果がある。椅子が一つ一つひとりがけであれば、隣の人に気を遣わなくて済む。ベンチのように、遅れて入ってきて「ちょっといいですか」と、すでに座っている人をかきわけて座らなくてよい。適当に空いている椅子を探して、そこに座ればいいのだから。他人との煩わしさがない。そっと礼拝に来て、ひとりがけの椅子に座って礼拝を過ごし、終わったらさっと立ち上がり帰る。誰に対しても余計な気遣いをする必要がない。これからの教会はこうでなくっちゃね────わたしはいつか教会の重たいベンチをすべて廃棄して、軽やかなアルミとプラスチック製の椅子に替えようと思っていた。

しかし、ある風景がわたしの考えを変えた。初めて教会にやってきた20代前半の若い男性が、90歳を過ぎた教会員の女性と楽しそうにおしゃべりをしている。彼らはたまたまベンチで隣同士になったのだ。初めて礼拝にきてベンチに腰をおろしたものの、どうふるまってよいやら分からず不安げな男性に、この女性はタイミングを見ては讃美歌や聖書の頁を開いてやった。そういう気遣いによって男性は安心感を覚え、彼女に親しみを感じたのである。大学生の彼にしてみれば、ふだん90歳代の人と会話をすることなどほとんどないだろう。それもこんなカジュアルに。

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