不幸の主語

不幸は、主語が自分なのか他人なのかで意味が違う。もちろん親しい人の嘆きを聴くとき、それを冷静に聴いてはいられない人は、いくばくか相手の不幸を分けてもらっている。だがぜんぶではない。不幸を嘆く人の、その嘆きはその人のものであって、同情したり共感したりする人のものではないからである。

それは自分が不幸になったとき分かる。周囲の人々による心からの共感や同情を伴った慰めさえもが、靄の向こうにぼんやりとしか響かない。自分の心には届いてこない。まるで自分だけが穴に落ちてしまい、独りそこから上を見上げているようだ。上からは悲痛な面持ちで家族や友人、恋人が穴を覗き込み、見守ってくれている。しかし穴の底にいるのは自分であり、その人たちではない。

神を信じるというのは、そのような不幸の穴に落ちた自分のところまで、神が降りてきてくれると信じることである。いや、むしろこう言えるかもしれない。神はわたしが穴に落ちたときには、すでに穴の底にいるのだと。

イエスは逮捕される前、このように祈ったという。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。そこには苦しみを回避したい、私人としてのイエスの不安があふれている。同時に、公人としてのイエスも垣間見える。その少し後には、イエスはこう祈る。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。比重は公人のほうへ移る。だが杯を受けたくない、飲み干したくないというイエスの苦しみはまだまだ尾を引いている。

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