まなざしが手足を侵蝕する

あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。

マタイによる福音書5章27~28節 聖書協会共同訳

心の中でなにを想おうが自由である。イエスがよけいなことを言ったせいで、人は悩まなくてもよいような私的な領域にまで葛藤を持ち込まなくてはならなくなった────たしかに、そう言えなくもない。ムスリムの知人と話したことがある。出典は不明だが、彼は言っていた。イスラームの教えにおいては、他人の内面の、たとえば信仰や不信仰については詮索しない。行いにおいて、その教えを実践しているか否かのみが問題となる、と。彼の信仰で考えるならば、心のなかでどんな淫らなことを想っていようが、実際に行動に起こさない限り問題はない。つまり、内的な葛藤を持ち込み煩悶する必要はない、ということになる。

その著書『性と宗教』のなかで、宗教学者である島田裕巳は上記の聖書箇所に言及し、イエスは性のことで悩んだのだと指摘する。そうでなければこの言葉は出てこなかっただろうと。多くのキリスト教徒にとっては抵抗のある見解かもしれない。だが、わたしは非常に納得がいった。キリスト教の伝統的教義によれば、イエスは神であり人である。神であることが中途半端であってはならないように、人間であることも中途半端であってはならない。ということは、男性として中途半端であることもなかっただろう。それも性的に健康な男性として。ならば、自分の好みの女性というものも存在したかもしれないし、女性の色気を感じたこともあっただろうし、心のなかでその女性と性行為をすることを想い浮かべもしたのではないか。世のなかには最初からいっさい性欲がない人も、もちろんいる。そもそも異性に興味のない人や、性的なこと全般に惹かれない人もいる。しかしイエスがそうだったとしたら、上記のようなことを語っても、人々は「お前はいいよな。最初から興味がないんだからよ」と鼻白んだことだろう。また、高みからものを言うなと反発さえ覚えたかもしれない。

イエスは、まなざしから欲望が発生する、その機微をよく知っていた。たしかに信仰は、とくに古代においてはまず行為であって、現代人がもっとも大切にするような意味での、内面の問題はその次であっただろう。心が先か行為が先かといった心理学的な議論に立ち入ることは、わたしにはできない。しかし、まなざしてしまう、目がそこへと惹き寄せられてしまい、離すことができない状態。それがいけないことだと分かってはいても、それをやめられないこと。イエスは荒野で四十日間の断食をしたというが、そのときもまず、自身の心身に生じる欲望、異性を窃視しようとする衝動と向きあったのではないか。

そういうイエスが語る言葉だからこそ、人々の共感を得たのではないかと、わたしは思う。イエスは、自分自身がそのような欲望に苦しんだ者として、人々に語りかけたのだ。少なくともわたしはそのように考えることで、自分自身の慰めとしている。なぜなら、わたしもまた、妻以外の女性に欲望を感じては、盗み見ることを繰り返しているからである。牧師という職業は、性的な事柄を臭わせてはならない。生臭坊主という表現があるように、生臭さは聖職者という社会からの期待に反する。しかし禁じられれば禁じられるほど、わたしの内には性的な欲望が燃え上がる。

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