対話

八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ』を読み、ソクラテスの優しさみたいなものが見えた。良い本だった。ソクラテスというと、たとえばドイツ・ロマン主義の時代「ソクラテスのイロニー」といって、知っているくせに知らないふりをして相手を問い詰め、その無知を暴くということがしばしば考察の対象となった。このソクラテスのイロニーという観点はシュライエルマッハーやキルケゴールなど、さまざまな思想家に影響を与えた。だがこのような、プラトンをとおして見たソクラテスの姿はとても厳しい、十字架へ向かう(だけの)イエスの姿を思わせる。しかし実際にはイエスにだって、おおらかな酒飲みの大食漢という側面もあったわけで、ソクラテスにも人懐こい、そして配慮に満ちた恩師という姿があったのだ。

わたしは本書を読みながら、かつて精神科病院に入院していた時期のことを思い出していた。主治医の面影を懐かしんでいたのである。この主治医もお腹が出ていて髭を生やしており、伝承に伝えられているソクラテスの風貌を思わせた。そのぎょろりとした目でわたしを見据え、我が主治医ソクラテスはいつも問うのであった。「なぜ、沼田先生は(そう、彼はわたしに敬意を表して、いつも「先生」と呼んだ)そう考えるのですか?ほかの仕方で考えることはできないのでしょうか?」。

最初、わたしは彼と知的なゲームを楽しんでいたといってもよい。診察室で自分の知性(とわたしが思いなしているもの)を開陳することは、退屈な入院生活にあって、まずまず愉快なことであった。わたしは暇つぶしとしての診察を楽しみに、閉鎖病棟での入院生活を耐え忍んだ。その心性には「わたしはここにいる他の連中のような異常者ではない。わたしは理性を駆使できる社会人である」という、他の人たちを軽蔑して自らのプライドを保とうとする隠された意図があった。その意図はわたし自身にも隠されていたのだが。

ここから先は

1,580字
この記事のみ ¥ 300

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。