調律

教会でピアノコンサートをすることになった。ごく小規模の、くつろいだものではあるが。

それで、調律を頼んだ。30代半ばくらいの、女性の調律師がやってきた。今は調律師の側も、頼むわたしのほうも、すべてインターネットで事足りる。電話帳をめくって「どの業者にしようか」と悩む手間も減った。しかも実際には事前にきわめて具体的なやりとりが連絡しあえる仕組みでもあるから、不安もない。雨のなかキャリーカートに仕事道具を積んでやって来た調律師は、数時間かけてとても誠実な仕事をしてくれた。

彼女は同時に、注意もしてくれた。ピアノの内部のフェルトが虫食いだらけで、ほぼ喰われて無くなっているパーツもあること。油が切れて戻らないハンマーがあること。鍵盤が沈み込んでおり、本来の高さではないこと。今回は取り急ぎ応急処置はしたが、やはり修理も必要であること。
わたしが働くこの小さな教会は前任者による創立以来、その運営には苦労が絶えなかったと聞いている。ピアノも他教会からの頂きものであるという。おそらく定期的なメンテナンスを行うだけの余裕もなかったことだろう。ピアノは教会の歴史同様、満身創痍をその身に刻み込んでいる。

そしてコンサートが始まった。ベートーベンの『悲愴』などが弾かれるうちに、みるみる調律は狂っていった。素人のわたしにさえ分かった。やはりハンマーが戻らないのか、鳴らない鍵盤もあった。それでもピアニストというのはさすがである。制約が限りなく多い状況下にあって、それでもお客さんたちを満足させる演奏をしてくれた。拍手喝采、みんな喜んで帰って行った。わたしは美しくも危うい悲鳴を上げるピアノの音を聴きながら、お金がかかってもピアノは大切にしなくちゃいけないと痛感した。

演奏者が人間であるのは当然だが、わたしはピアノそれ自体にも人間を感じた。この教会にはクリスチャンに限らず、ツイッターのダイレクトメッセージやホームページの問いあわせ欄などから、相談者が連絡をしてくる。会ってみるとそれこそ満身創痍であることも多い。この教会のピアノのように、かろうじてその存在を保っている。だが、ぼろぼろのピアノであっても、ピアニストは美しい音を奏でる。それと同じように、神は満身創痍の人から、その人にしか出せない言葉を、いや、その存在そのものを奏でだす。わたしはピアノの割れている音を聴きながら、あらためて教会に来るあの人この人のことを想っていた。

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