いろいろなことを信じながら生きている毎日

わたしは宗教にまつわる仕事(牧師)をしているので、さまざまな局面を信仰との類比から考える。

人間にはあらゆる自由が神から与えらえていると信じる人もいれば、人間には神から許される限りでの自由が与えられていると信じる人もいる。その一方で、神などいないのであり、人間はただ人間自身の自己決断によって、自由を獲得していくものだと信じる人もいる。さらには、神などどうでもよいのは同じだが、人間の際限なき自由は暴力的だから、それはある程度制限されなければならないと信じる人もいる。ほかにもさまざまな思想、立ち位置を信じる人がいる。

今、あえて「信じる」という動詞で統一した。このことに違和感を覚える人も多いだろうと思う。人間があらゆることからも、そして神という妄想からも自由であるという事実は、信仰とはいかにも真反対のことであるように響く。それを「信じる」という動詞で表現することは奇妙に聞こえると思われる。

わたしも以前は自由について「信じる」という表現は奇妙だと思っていた。それは信じるもなにも、そもそも人間に普遍的に与えられたものではないかと。「与えられた」という表現にまだ神の痕跡が残っていると指摘されるならば、あえて無神論の人にあわせて「人間が普遍的に獲得していくもの」としてもよい。そのようにわたしも考えていたのである。

しかし、わたしはイスラム教を信じる人たちをとおして、イスラム世界のことを若干学ぶようになった。また、人類学者の著作を読み、わたしたちとはぜんぜんちがう、今なお狩猟採集を行っている人々の存在を知った。わたしはイスラム世界に住むイスラム教徒でもないし、狩猟採集民でもないのだから、彼ら自身の心情をほんとうに知ることは不可能である。したがってあくまで類推でしかないのだが、少なくとも彼らはそれぞれ、わたしたちが考えている自由や平等とはぜんぜんちがう(なんだったらぜんぜん関係ない)理解や感性を持っているということである。

もちろん、次のように考えることもできる。そうした世界は「発展途上国」なのであり、人権意識がまったく浸透していない地域である。だからわたしたちは自由や平等を、そして宗教に束縛されない教育を、広めてゆかねばならないのだと。そうすることによって戦争や差別のない世界が、いつかは実現するだろうと。

以前にツイッターである人がこんなことを言っていた。「宗教で争いごとが起こる世界は愚かだ。日本ではあらゆる宗教や価値観が受け入れられている。だから世界は日本化されるべきだ」。その人は「世界は日本化されるべき」という表現を使っていた。わたしはそのとき思ったのだ。この人は、世界は日本化されるべきだと「信じている」と。もちろん、その人なら否定するだろう。これは信じる信じないの話ではない。人類に普遍的なことだ。そして人類に普遍的なことが日本では実現しているのだから、そういう意味で「世界は日本化されるべきだ」とわたしは比喩的に言っているのだ、と。

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