自己は統合されているか──灰の水曜日に

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 ルカによる福音書 4:1-2 新共同訳

聖書を読む現代人の当惑するのが、悪魔の存在かもしれない。今まで何度も言及している『悪魔祓い、聖なる儀式』とか『エクソシスト』であるが、前者は「それは悪魔憑きではなく精神疾患でしょう」と多くの人がツッコミを入れるだろうし、後者に至ってはホラーの名作ではあっても、現実にそんなことはあるはずがないと見なされるだろう。実際、日常生活のなかで何でもかんでも悪魔だ祟りだと言いだせば、現代の社会生活を営むことは難しい。例えば、もしもわたしがそういうことを主張するなら、あなたはわたしを相当な変わり者かカルト信者、あるいは精神の調子を崩した人と見なすかもしれない。

ところで最初に引用した聖書箇所であるが、これは「荒れ野の誘惑」といって、イエスが福音宣教をする前に、独り荒れ野へと引きずり込まれ、悪魔の誘惑を受ける場面である。荒れ野に引きずり込んだのは神の聖なる霊であるが、その様子は決して楽なものではない。イエスは断食の肉体的限界のなかで、悪魔を見る。

悪魔は実に狡猾である。悪魔は、まずは二度イエスを誘惑する。そのたびにイエスは、今日キリスト教徒によって「旧約聖書」と呼ばれている聖書からの引用をもって、悪魔を斥ける。ところが、である。悪魔は、イエスが聖書を引用して誘惑を斥けるという、その構造自体を学習する。今度は悪魔の側から聖書を引用して、聖書の言葉それ自体によってイエスを誘惑しようとするのである。詳しくはぜひ、ご自身で当該の聖書箇所を読み味わっていただきたい。悪魔は聖書を使ってイエスを誘惑することで、聖書テクストそれ自体は善でも悪でもなく、使いようによっては自分を誇大に正当化したり、人を陥れたりすることもできるという残酷な現実を皮肉る。

ところで、この悪魔が現代社会では通用しないということを冒頭に書いた。仮にわたしが何か罪を犯すなら、それは悪魔のせいではなく、たんにわたしの意図が邪悪だっただけであると。葛藤するのもわたしだし、葛藤を克服するのも、またわたしの責任であると。だが、そうだろうか。そこでわたしは自分自身について考える。「わたし」である。「わたし」は、それほどに内的にまとまった、統一された自己なのだろうかと。

わたしは子どもの頃から癇癪に悩んできた。癇癪を起こすとスッキリするどころか、後味の悪さが尾を引いた。周りの人に距離を置かれることが辛かった。その辛さは成長するほど酷くなった。年齢を重ねれば人間関係は複雑化するから、キレてしまう失態の重さは増すのである。
そして牧師という社会人になってからキレたとき、わたしは職を失う結果を招くことになった。

「魔が差す」という言葉がある。とてもリアルな響きだと思う。キレるとき、わたしは自分を制御できなかった。アンガーマネジメントでは6秒間クールダウンせよという。しかし6秒もなにも、突沸するのである。まるで何かが取り憑いたように。キレるのはわたしである。しかし後から振り返ると、それはわたしではなかったかのようである。キレる前のわたしと、キレたわたしと、あとで後悔しているわたしとのあいだに、大きな断絶がある。

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