あなたのりんごは何色?

安易な哲学話にこんなものがある。

「私が見ているりんごの赤と、あなたが見ているりんごの赤は、同じ赤だろうか」

厳密には違う、というかこの場合においてはむしろ違いを明確には証明できないと言ったほうが正しいだろう。

赤色を赤と感じるのは物理的な作用だが、感知する器官が果たして同質なのか、または同質の出力を行っているかどうかを見極めるのは難しい。
そのため、こうした思考実験を通して伝えたいことはこのように換言される。

「人は皆、一人一人が違う世界を見ている」

そんなことを言われてハッとする人も少々は居るかもしれないが、実は当然のことでもある。
それを日本語を通して解説しよう。

例えば、AさんがBさんから「絶対に感動するから」とおすすめの映画を紹介されて、その映画を観たとする。
そしてBさんの言葉通り、感動したとしよう。
それを表現すると、こんな形になる。

AさんはBさんと同じ映画を観て、同じように感動した。

ここで注目してもらいたいのは、"同じ"と"同じように"という箇所。

一見、不自然さはないように思われるかもしれないが、よく考えてみてほしい。
はたして "同じ" と "同じように" は同様の意味だろうか。
無論、異なっている。
それはこのように文を変形すれば、すぐに分かることだろう。

AさんはBさんと同じような映画を観て、同じ感動をした。

この文に備わる違和感、その原因は明白である。要は、先ほどの文とは意味が異なってしまっているのだ。

AさんはBさんと同じ映画を観て
AさんはBさんと同じような映画を観て

つまりこの場合、"同じ映画"は全く同様の映画を観たのに対し、"同じような映画"では"似ている"だけであって他の映画の可能性を示唆しているからである。

なーんだ、さっきの違和感はこういうことか。じゃあ解決だねと早合点しないでほしい。
重要なのは、ここからなのだから。
ということで、最初に挙げた例文を改めて振り返ってみよう。

AさんはBさんと同じ映画を観て、同じように感動した。

先ほどは"同じような"における非同一性を解説したわけだが、ではこの最初の例文はどうだろうか。
違和感を覚えたようであれば、あなたは鋭い。
そう、つまりはここで述べられる"同じように感動した"が示すことは、"AさんがBさんと同じように感動した"ことを示すのだが、私たちはその"感動"を無意識的にも同様のものと錯覚する。
それが実際には異なるものであることは、先ほどの解説が示した通りであり("同じ映画"と"同じような映画")、二番目に挙げた例文による"同じ感動をした"が示す違和感とも繋がるわけだ。

ということで総括を述べよう。
ここで言いたかったことは、他人と自分の感覚が全く同一のものではないよということは思考実験をするまでもなく、文法的なものの活用の仕方から既に分かっていた事なんじゃないかってことだ。

ちなみに"文法"ではなく、"文法的"と表現したのは、文化的側面を慮り日和った結果である。

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