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『卒業』(1967)シュジンコウになりたい主人公

先日、『卒業』を再見した。
笑った、面白かった。
初見のときとは受ける印象が異なり、この映画の本質はコメディなのだと気がついた。
では、いかなるコメディか。
私はシュジンコウたり得ない存在である主人公がシュジンコウになるべく振る舞うコメディだと考えている。


シュジンコウと主人公

まず、この記事におけるシュジンコウと主人公の違いについて説明する。
シュジンコウとはいわば「英雄」(英:Hero)である。
このシュジンコウとはスターによって演じられ、試練を乗り越え、誘惑に負けず、ヒロインを獲得するものである。
対して主人公とは物語内の形式的な主人公(英:Protagonist)である。
冒頭に示した私の考えを言い換えれば、英雄たり得ない存在であるベンジャミンが英雄になるべく振る舞うコメディだともいえる。
ただ、シュジンコウというのは必ずしも俗に言う「英雄」とは一致するものではないと考えているため、この表現を使用することを、ご了承願いたい。

『卒業』という誤解

鑑賞後に『卒業』という邦題の意味を考えると多くの人は、大学を卒業することや童貞を卒業することのような行為(動詞)と結びつけてしまう。
しかし、この映画の原題は『The Graduate』であり、Theがついていることからも分かる通り、名詞なのであり、訳すと『卒業生』となる。
つまりこれは卒業という行為の映画ではなく、卒業生の映画なのである。
よって、大学の卒業生となり、社会に出ることによって自分自身での行動と決断を迫られる状況に置かれていることが重要なのだ。

ラストシーンからのファーストシーン

『卒業』はキング・ヴィダー版『群衆』(1928)のラストシーンのオマージュといえるファーストシーンから始まる。

『群衆』という映画では主人公が大物になり、群衆に飲み込まれないような傑出した存在になることを主人公が目指す映画である。
しかし、ラストシーンではその願いは叶わず、主人公が群衆の一部とかしたことが示される。

ベンジャミンは『群衆』の主人公が置かれている状況と同じ状況にあり、OPからは、それに対して満足していないことがわかる。
ゆえにベンジャミンはシュジンコウを目指している。
しかし、彼の移動は自分の意志で進むことのない飛行機や動く歩道によって行われており、卒業まで意志を持たずに流されるままに行動してきた人生なのだ。

左側の空白と動く歩道に乗るベンジャミン

この自らの意志で進まないものはラストシーンのバスにおいても同じことが言える。

ヒロインを求める道化

ベンジャミンは今まで受動的にしか行動をしてきていない。
それ故に、シュジンコウになることはできず、シュジンコウではないのだ。
言ってみれば、三枚目、道化のポジションにある。
彼が父親に向かって「違いたい」と話す台詞のあとにはピエロの絵が捉えられる。

ピエロの絵

そのために、シュジンコウではなく道化であるベンジャミンは、ジャングルに潜む猛獣たる夫人を倒す事はできずに、誘惑に負けてしまう。

毛皮を身につける夫人の誘惑は植物の周りで行われる

初めて夫人の誘いを受けたときの部屋にはエレインの肖像画があり、彼女はベンジャミンにとって偶像化される憧れのヒロインであることがわかる。
そして、エレインの肖像画に夫人の姿が重なる。

エレインの肖像画に重なる夫人の影

彼はシュジンコウへの憧れからくるヒロイン獲得の欲求を夫人によって満たすことができる状況におかれ、葛藤しているのだ。
最終的に彼は夫人の誘惑と自らの欲望に負けてしまう。

自動車による錯覚

先程、ベンジャミンは自分の意志で進むことのないものによって移動していると述べた。
これに対して、「いや、彼は自動車を運転していたではないか」と思った人もいるだろう。
指摘はもっともで、確かに彼は自動車を運転している。
しかし、あの自動車は彼自身の力で得たものではなく、卒業記念に父から与えられたものである。

車を運転するベンジャミン

つまり、他者のものを運転しているのだが、彼も観客同様に車を運転し始め、夫人と関係を持ってから自身をシュジンコウだと勘違いしている。
他者の馬に乗り、偽りのヒロインであるにも関わらず。
この勘違いが、プールでの態度や行為後の空気の読めない会話、ストリップでのデート、ストーキングにような自意識過剰とも言えるコメディを生み出しているのだ。

シュジンコウになれない主人公

最後になって彼は、ヒロインであるエレインを他の男性から奪い取るという非常にシュジンコウ的な行動を見せる。
もし彼がここでエレインとともに近くに止まっている自動車を奪取し、逃げようものなら彼らはフリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』(1937)から始まり映画史を横断する男女逃避行モノの主人公となる権利を得ただろう。
しかし、彼らは他者が運転するバスに乗ることを選択する。

バスに乗るベンジャミンとエレイン

彼は最後まで受動的な道を選択してしまい、シュジンコウになることができない。
ベンジャミンという人間はシュジンコウになるという漠然とした欲求を持ちながら、自分自身で何かを獲得し行動することはしない矛盾した人物なのだ。
故にこの映画の主題歌は「Sound of Silence」直訳すると「沈黙の音」なのである。
この矛盾からくるズレがこの映画をコメディたらしめている。



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