連続ブログ小説「南無さん」第十二話

 カチャーン。という音が屋敷中に響き渡り、庭で囀っていた雀にもこれは聞こえたらしい。彼らは驚いて塀の上へ飛び上がった。

 しかし、南無さんの家には割れそうなものはもうないはずである。というのもすでに、いずれの茶碗も南無さんが己の雁首にひっかけてぐるぐる回しているうちに戸外へ飛び出して行って、待てど暮らせどひとかけらも帰ってこなかった経緯があるからだ。

 カチャーン。カチャーン。

 では何の音かと問われれば、畳に座す南無さんの姿を見ればこれは一目瞭然である。南無さんは間の中央に座禅を組み、そのまたぐらに黒っぽい板状のものを置いていた。その板は蝶番になっていて、上の板は南無さんの前側へ120度ほど開いた状態で固定されている。それでも下の板にはそれなりの重量があるらしく、この角度を保っていられるらしい。あえて言うまでもないことだが、南無さんは全裸であるため、この下の板の手前側には怒張スタイルの陰茎が待機しているのである。するとさきほどの音は、これでもかとそそり立つこの南無さんの怒張が、黒い板に打ち下ろされた音に相違なかった。黒い板の内側には細かく区切られた文字盤が並んでおり、この細かい文字盤が音を鳴らしたものらしい。これを押下すると上の板の内側に文字として現れるという、なんとも奇怪な道具である。

 ガチャ。チャチャ。カッチャーン。

 この黒い板は先日、陰毛散らしがわざわざ宅急便で送ってよこしたもので、南無さんにはその使い方はよくわかっていない。南無さんの興味はいかにして己の陰茎に多彩な刺激を与えるかに絞られている。結果、南無さんはこの姿勢で黒い板を開き、その類稀なる骨盤底筋の操作でひがな一日ガッチャガッチャと文字盤に陰茎を叩きつける日々を送っているのであった。

 ガチャチャチャ。ガチャチャチャチャチャチャ。

 ……………………カチャ。

 後日、黒い板は再びやってきた配達員によって回収されてしまった。終始わけのわからぬ様子だった南無さんだが、彼は再び座禅を組んだ。そこに黒い板はもうないが、黒い板があったという日々が、彼の陰茎には深く刻まれているのである。色即是空。空即是色。その陰茎の動きは素振りにあらず、見る者が見れば、打ち下ろされた先端が文字盤に触れ、けたたましく音を鳴らすさまが見て取れただろう。今も南無さんの家の前を通ると、あの音がどこからとなく響いてくるとかこないとかである。

 陰毛散らしは回収したノートパソコンを開くと、南無さんが振り散らしてキーボードに絡みついている陰毛の採取にとりかかった。昨今の情勢上、陰毛散らしといえどもテレワークの波には逆らえない。しかし南無さんの打鍵によって奏でられたドビュッシーのおかげで、キーボードの内側にまで粘液が流れ込んでいるものだから、回収は非常に難航したと言える。しかし彼はなんとかやりとげたようだ。まったく、テレワークも楽ではない。

 陰毛散らしは次回の納入に向け、念のためPCを起動した。そこで、起動シーケンスの最中、キーボードをクリーニングしていて気が付いたことがある。強く打ち付けられ続けたであろうキーの塗装が、少しはげてきているのだ。起動が終わり、デスクトップにあらわれたメモ帳を開くと――そこにはしかし、なにも打ち込まれてはいない。

 南無さんが少しでも陰毛を散らす助けとなるよう予めメモ帳を開いて渡していたのだが、はて、あの南無さんがバックスペースを押せるわけでもなし、妙なことだと思い窓を閉じようとしたとき、ふとウィンドウの右端に上下カーソルが現れていることに気が付いた。のどで生唾が鳴る。何かよくないものを見つけた気がして恐る恐る下へとカーソルを動かすも、そこには何も表示されない――否。表示され続けているのである。どこまでいっても何もない。”何もない”がメモ帳を埋め尽くしているのだ。陰毛散らしははたと気が付いて身を引く。剥げていたのはスペースキー。南無さんはPCを貸し出したたった数日の間に、己の怒張で何十万回もの打鍵を繰り返し、メモ帳に”空”を打ち込んでいたのである。その行為の重さたるや――陰毛散らしは、ハハア…と嘆息を漏らした後、素直に「キンモ」とつぶやいた。

 ファイルの情報量は500KBに達していた。だがそんなものがなんになる。南無さんの陰茎は今日も”空”を叩いて高らかに果てた。中空に弧を描いた”色”は、しかし空しく南無さんの膝を汚すのみである。

 畳の目を濡らしたのは、何もそのしずくだけではあるまい。

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