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社会性を持つ事で失うもの
上京してなかなかの年月が経った。
私は今でも渋谷が好きだ。人混みが苦手だからもう行きたくないと言う人たちが周りには増えたけれど、あの雑踏の中で私は「誰も気にしていない、ただの通行人」になれるから。
なのに、名を知り合う相手と対峙した時は「代替不可能な唯一無二の私」でいたい。きちんと名を持ち、個性がある私でいたいと思ってしまう、矛盾、矛盾、矛盾。
例えるならば、両親が私に抱く感情みたいなものを血の繋がらない他人に求めてしまう、きっとこれはおそらく幼稚さからくるものだ。
もともと私は身体的特徴により物心ついた頃から少しばかり個性的な存在として扱われてきたから、なるべく目立ちたくなかったし、今でも「何者か」になりたいとは思わない。ただ、何らかの形で社会に貢献出来る人間であればそれで良いと思っている。あくまで仕事をする上では、歯車である感覚さえ得られればそれで充分だ。
時おり一人で渋谷辺りに出かけて「何者でもないこと」を実感しに行くのに、誰かにとっての特別な存在ではあり続けたいという矛盾を抱えながら生きるようになったきっかけを思い返してみると、他者からの印象を意識し始め、努めて変化していった経緯がある。
無愛想を辞める。身なりに気を遣う。言葉の出し惜しみはしない。
そうすると、誰もが振り返るような美人でなくとも悪い印象にはならないし、自然と人が寄ってくる。好意を持たれる。
けれど、コミュニケーションにおいて「本当は思ってないのに、とりあえず謝る。言葉は無料だから」「楽しくないのに笑う、相手が悲しくならないように」、そのような事を繰り返していると「中身のない薄っぺらい人間」と言われるようになってきてしまった。あるいは、「他の人にもそういう風に優しくしているんでしょう」だとか。
バランスよく感情の発露が出来るようになりたい。円滑に喜怒哀楽を表現することは、とてもとても難しい。
社会性を身につけると言うよりは身につけざるを得なかった、やらされた感覚が少なからずあるのかもしれない。組織の中でうまくやれても、いざそのコミュニティを離れ数年も経てばほとんどの縁が切れるのに。
社会性を持つようになるにつれ、むしろ家族のように大事にしてくれる存在との接し方が苦手になってしまったように私は思う。完璧に取り繕うことも、昔みたいに全てを曝け出すことも出来ず。
外での私と、プライベートでの私との切り替えがうまく出来れば良いのだろうし、両立出来れば尚良い。それを目指すようにはしているけれど、今の私には少し難しいみたいだ。
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