通信制教育と読書について

小学校→中学校→高校→大学→大学院にいたるまで、わたしは通信制教育の制度が拡充し、より一般化する日本社会を望んでいます。

わたしは、すべての教育が通信制であるべきとまで主張するわけではありませんが、教育の中心形態は基本的には通信制であるべきと考えます。そして、それが不適応の生徒の受け皿に過ぎず、本格的な教育でないというイメージは、単なる先入観であると考えます。

かく言うわたしは、小学5年生からの不登校の延長線上で、高校を通信制で卒業しました。ちなみに中学校には行っていません。

わたしは、だからといって中学・高校・大学レベルの学力面で困ったことはこれまでに一度もありません。それくらいのことは自分自身で本を読んで自学自習できたからです。

大学は、大学受験の失敗とメンタル失調のため進学が上手く行きませんでしたが、これから先、通信制大学・大学院への進学を真剣に検討しています。

しかし、通信制教育は、不登校の生徒たちの受け皿に留まるものではありません。むしろ、現代教育の最前線を走る教育形態として、ITテクノロジーの飛躍的な進歩と相伴って、特別な意義を持っているものと考えます。

まず、通信制教育の意義は、その圧倒的な時間の自由度にあります。全日制の場合、週休2日制であり、平日の日中には必ず出席しなければなりません。したがって、劇場型の一斉授業に多大な時間を拘束されることになります。正直、学生なら誰でも、すべての授業ではありませんが、わざわざ出席するに値しない退屈な一連の授業を知っているはずです。

しかし、通信制の場合、定期的なスクーリングをのぞき、授業の視聴とレポート提出という要件を満たせば、単位を取得することが可能となります。
人生にとって、時間は生命にひとしい価値を持ちます。したがって、その時間をより有効活用でき、授業の中で退屈なものを完全にスキップできる教育形態には、一つの明らかな優位性があるものと考えます。

個人的体験を話せば、わたしは通信制高校には深く感謝していますが、残念ながらそれに引き換え全日制の予備校は、単に苦しさを耐える練習にしかならず、何らの教育的な学びを得ることができませんでした。
その原因は、明らかに劇場型一斉授業という教育形態がわたしに合っていなかったことにあります。また、もう一つの問題として、大学受験を行う価値がそもそもなかったということも挙げられますが、それは別の話です。

話を戻すと、通信制教育は、スマホという文明の利器が存在するようになったことにより、自学自習の環境が圧倒的に整えられたのでした。

そもそも、勉強の王道は自学自習です。この点、通信制教育の性格と自学自習は相性が良いです。
もとより、スクールは無意味ではなく、自分自身の力で学べないものを教えてくれる意義があります。
これに対して、本による自習は、経済的に圧倒的に廉価であるというメリットがあります。本に記されているものと同じ内容を、先生と学校から学ぼうとすると、何十倍何百倍のコストが掛かるのが通例です。

とくに、大切なのは個人的な探究の一環としての読書です。

本の読み方は、唯一の正解がある分野ではありません。複数の正解が鼎立する分野です。本の読み方にかぎらず、文章の書き方、考え方など、知的生産活動全般がそうといえます。

そもそも、一度きりしかない人生をどう生きるかに唯一の原則があるわけがありません。
持って生まれた資質も、生育環境も、個性も、対人関係も異なります。

図式的に言えば、知的生産の構図は次の通りになります。

インプット→内部処理→アウトプット

それぞれが、個人固有のプロセスであり、その研鑽は個人的探究に委ねるしかありません。そして、その探究には膨大な時間がかかってしまうのが通例です。
とはいえ、成功している他人の事例を学ぶことは、時間短縮のために有益です。

わたしは、かれこれ最低数千冊は本を読んでいます。2日で1冊読むとすれば、2000冊読むために10年かかるという計算になります。わたしは高校生の頃から読書を始めて、現在20代後半ですから、この計算はおおよそ妥当でしょう。

わたしの本の読み方は、一言で言えば、精読と多読を適度に切り替えています。言いかえれば、一語一句読み込むモードと、ざっと流し読みするモードを使い分けています。そして、ほとんどの本は、何回読むにせよ、熟読するにせよ、まず最初はざっと流し読みするべきです。

しばしば読書が苦手な人は、最初の1ページから一語一句熟読しようとして、最後まで続かずに挫折してしまいます。こういう読み方は、そもそも内容を正確に記憶するという点でも、コストパフォーマンスが悪すぎるので、お勧めできません。

わたしならば、内容を記憶に残さなければならない場面でも、最初から一語一句読み込むことはせず、流し読みを何回も塗り重ねるという方法を取ります。そうすると、心に響くページや行が目に飛び込んでくるでしょう。その時初めて、その箇所を一語一句読むことにします。

なお、よほどのことがないかぎり、読書ノートは取りません。取るとしても、必要最小限にするべきです。その理由は、あまりに時間がかかり過ぎるからです。その上、たとえ文字に残したとしても、その内容の記憶は残らないのが通例です。とくに、紙に書くのは時間の無駄というべきです。そのような時間があったら、一冊でも多くの本を読むのが先決です。

わたしは、本の書評をスマホで書いています。書評を記すことで、本の内容は記憶に残りやすくなります。したがって、多読する中で、これといった面白い本に出会ったなら、そのような文章を書いてみましょう。

わたしの読書方法は以上に尽きています。

ところで、和書に限っても、世の中は膨大な数の書物が発行されており、一生どころか十回の人生を与えられても、到底読み切れない数の本があることは明らかです。

では、わたしたちはどのような本を読むべきなのでしょうか。既に教養主義が没落した現在、古典、とくに海外の19世紀の翻訳文学を読めと勧めるのは時代遅れなのでしょうか。

たしかにトルストイやドストエフスキーは深淵な人生の教訓を与えてくれます。しかし、そもそも古典というものは文学にかぎられるものではありません。したがって、必ずしも万人にそれを勧められるとはかぎりません。

ただ、そうはいってもいわゆる古典と呼ばれる本は、人生に有益である確率が高いゆえ、膨大な数の書物の中で、一応の目安となるべきです。

なぜなら、本の学習と伝承のコストは高く、本そのものにそのような価値がなければ、そもそも読まれるべき本として伝えられることがないからです。数百年前、数千年前の昔から伝えられた時点で、それだけの時間に拮抗する価値がその本に内在しているのです。

ただし、一口に古典を読めといっても、その古典の数すら古今東西で膨大であり、したがってそこには自由選択の余地があります。ここまで絞られたなら、基本的に自分自身の興味関心に沿った本を読めば良いでしょう。

どのような本が具体的に古典であるかについては、検索すればブックリストがいくらでも出てくるので、ここで挙げることはしません。迷ったら岩波文庫を読めば手堅い選択ができるということだけを述べておきます。

わたしは、通信制高校ゆえに自由時間が多く、その時間でそのような読書が出来たことに感謝しています。しかし、それに引き換え予備校での勉強は、内容面でも浅く記憶に残りませんでした。そして、それを耐えるだけで鬱になってしまったのでした。

わたしは、もし予備校に行かなければ、今頃どんなに沢山の本を読め、その結果、どんなに賢くなっていたかと考えると、受験勉強に腹立ちを感じます。また、同時に、受験というシステムを真に受けた自分自身を残念に思うのです。

つまり、個人的な探求としての読書は、既存の教育制度を超える可能性を持つものです。とくに、通信制の生徒が、自由な時間を生かして、国内外で卓越した成果を残すにあたって、読書は死活的な意義を持ちます。

読者の皆様が、既存の教育形態に左右されず、古典を通じた自由な自己教育の可能性を追求することを願って、この文章を終わります。

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