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自由や多様性は無条件に善か?

自由や多様性の価値は往々にして誤解されていると思う。これらの理念は、一見すると崇高で立派なものと思われがちである。しかし、実際はそうではない。

もちろん、実際に社会の上層部では多様な価値観が交流し、お互いがその自由を享受している。しかし、それは理性的な一部の人たちの話である。その論理を一般社会に適用することはできない。

簡単に言えば、いわば外部から移民を入れると文化面での摩擦が多くなり、社会の治安が悪化するということである。この点で、文化的な多様性は必ずしも望まれていないことが分かる。誰も、不快なタイプの人間との共存を進んで求める者はいないからである。そのような自由を推進することは、むしろ迷惑なのである。

自由は、人間にとって忍耐するべき条件であると考える。なぜなら、人間は不自由という必然性の一本道、その確信をむしろ好むからである。つまり、「何かをしなければならない」よりも、「何をしたらよいのかが分からない」という状態が、一番のストレスということである。

言い換えれば、人生というゲームの盤面は手広すぎて、どのように一連の着手をしたらよいかが分かりにくい。そのため、戦略的に自由の幅をあえて狭めることが求められるのである。

だから、人間は絶対的な存在に頼り、おのれの承認欲求を満たしたがる。その頼るべき先は、古典的には神であるが、世俗化した現代では、社会的な地位、財産、人脈、家庭などが挙げられる。

自由や多様性について、政治的な文脈で考えると、次のような現象も見受けられる。つまり、二言目には多様性を賛美したがるタイプの人間が、ひとたび論争になると、自論を他人へと画一的に押し付けたがるという現象である。

つまり、党公認の「自由」や「多様性」しか彼らは与えようとせず、そこから一ミリでもズレると非難を浴びせるのである。このことからも、この二つの理念を貫徹することの困難さが見て取れる。

自由や多様性について、いささか否定的に論じたが、むしろ私は、自由を何よりも尊重している。ただ、自由や多様性にともなう困難さを自覚することが、何よりも重要であると考えているだけである。

先に述べた「戦略的に自由の幅を狭めること」に該当するのは、型や形式と呼ばれるものである。普通の人間は、絶対的な自由にほとんど耐えられないからこそ、型にみずからをはめることで、かえって自由を享受するのである。

ただ、型にはいろいろなメリットがあるとはいえ、伝統を一ミリも誤らずに墨守しようとするのは、むろん行き過ぎである。そうすると、新しい要素を何一つ付け加えることができなくなってしまい、時代が過去に止まってしまうことになる。

たしかに、宗教の聖地であれば、教祖の伝統を守り伝えることが第一義であろうが、それは特殊な事例である。あまりに伝統にこだわりすぎると、レガシー(時代に合わなくなった)な知識を固定する結果に陥ってしまう。

要するにそれは、伝統的なカリキュラムが時代のトレンドに合わなくなるということである。高校生の科目で例えれば、古文漢文は典型的なレガシーである。

念のために言えば、私は論語・荘子・徒然草など、一通りの典籍には目を通している。しかし、そのような私であっても、現代の高校生に必要なのは、情報・金融・起業といった実学であることは疑いない。そのため、私は古文漢文の廃止論者である。それをやりたい人は、大学院に行けば良いと考える。

このような、時代遅れの型やカリキュラムが、高校生の自由を阻害している実情がある。この点でも、N/S高の取り組みには好感が持てる。

話を戻せば、自由や多様性は無条件に賛美できるほど容易なものではなく、むしろ困難をともなうことが多く、その困難を和らげるのが型である。ただし、時代遅れの型は新しいものへとアップデートされるべきである。

まとめ

・自由や多様性は困難をともなう
・人間は自由よりも必然性の確信を求める
・自由の困難さを和らげるのが型である

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