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お金と真理、あるいはお金の真理

今日は非常にすばらしい日であった。そのことを忘れないためにオンラインの場で日記を記しておきたい。

といっても、一言で言えば、午後3時から7時まで、私はある一人の友人と会ったにすぎない。しかし、その効果はてきめんで、私のマインドブロックは外れ、より雄大な構想を将来に描けるようになった。この意味においても、得がたい友人に出会えたと思う。あらためて、私は彼に感謝している。

その会は、とある事務所を借りて、4時間の間、座談会と料理会を兼ねたものであった。冬ということで、鶏肉や牛肉などを多くフライパンで焼いて食べた。私と友人以外の参加者も二人いて、もちろんその人たちとも心理的な距離を縮めた。

普段、その友人とは長くても2~3時間しか話さない。それがコーヒーや酒を飲みながら、4時間という長丁場になったため、無意識のレベルで胸襟を開き、自分の真の目標を潜在意識に刷り込むことが出来たと思う。

私には、理想的かつ現実的な経済的目標がある。それは起業により、年収1億円に相当する収入を得るという目標である。結論から言えば、これは全く非現実的な話ではない。

不動産投資・教育コンテンツ販売・物販などの選択肢が存在し、これらを大きく成功させることにより、野心のある有能な人にとっては、10年前後の自己研鑽で、再現が可能な範囲内と判断している。

もっとも、1000万でも、3000万でもなく、年収1億円は、とうてい一般性を持たない欲求であり、目標である。サラリーマンで例えれば、外資系金融の抜群に優秀な人間しか、その額を得ることはできない。そのため、この話の信憑性については読者諸賢にお任せするが、ともかく私は、友人と料理を作り、非常に長い時間をともにすることで、その目標をあらためて心の中で固めたのである。

こういう目標を立てていることから、私を拝金主義者と判断する人もいるかもしれないが、それは大きく外れている。私はむしろ、哲学や宗教が三度の飯より大好きなタイプの人間である。例えて言えば、大学院の博士課程で、後期ハイデガーの神秘思想について学ぶことに没頭するタイプの人間である。要するに、人文学が病膏肓に入った一つの卵に過ぎない。

では、なぜこのような奇妙な卵が、お金というものに興味を持ったのだろうか。簡単に言えば、こういうことである。

博士課程の院生やポスドクは、金を持っておらず、貧乏なままに清談を行っている。東大の教授も、例外的な場合をのぞき、なんとか文献が買える程度の金しかもっていない。他方、金を持っている経営者や投資家たちは、プラトンを克服するハイデガーの基礎存在論やら、カルマを分析するアビダルマ仏教の研究史やらに何らの興味を持っていない。

要は、形而上学は空虚な言葉遊びであり、暇人の道楽くらいとしかみなしていない。そして、「稼げる大学」や「大学の国際競争力の強化」や「人工知能・脱炭素への理工分野の重点化」などとスローガンを唱えている。つまり、技術的特異点という新たな信仰の潮流に対して、前のめりになっている。

要は、象牙の塔と資本はまったく連動しておらず、分断と悪循環をますます長引かせているのが現状である。しかし、両者は絶対に両立不可能な立場なのだろうか。相互不信は解消されないのだろうか。

パレスチナ問題は向こう100年間、未解決問題にとどまるかもしれないが、しかし学者と資本家の立場のへだたりは、さすがにそれほど深くかつ重くはないはずである。

むしろ私は、私の与えられた器の範囲内で、知識と金をバランスよく追い求めるのが最善と信じる立場である。そして両者のシナジー効果も科学的な検討に値する。これが私の在野研究者としてのマニフェストである。

宗教にたとえて言えば、これは来世と現世のそれぞれの利益の両立に相当する。伝統宗教にせよ、新興宗教にせよ、歴史的試練に耐えた宗教の宝物庫は厖大な量におよぶ。そして、これは超越的な救済価値を減退させるものではない。お金にせよ、救いにせよ、それらは人格のプラス材料に対する求心力である。彼岸と現世の接続である。

ともかく、政治家にせよ、宗教家にせよ、起業家にせよ、共通するのは圧倒的な求心力である。いちいち固有名詞をあげることはしないが、いずれの世界にも長年生き残ったカリスマは複数人存在するものである。

私は、格別そのようなカリスマに一足飛びになれるなどと無意味な妄想をしているわけではない。しかし、その器の10分の1でいいから、真似をする努力くらいは心の中で志向するべきだと思う。

話を戻せば、それが私にとっての、年収一億円の価値であり、また経済的な自由である。このような自由を確保してさえいれば、どんなに難解な虚学を追い求めていようと、死語の復興に努力していようと、あれこれと言われる筋合いはないはずである。

いわば、密教学と、人工知能の研究は、学問として明らかに等価である。知りたいから知りたいという動機で、隠された真理を知ろうとすることが、大げさにいえば、人間の尊厳である。

先に述べた、研究者やその卵を保護することもできる点は、金の力として言うまでもない。それは利他的なお金の用途でもある。つまり、清らかな魂が形成する財産である。

お金のため、貴重な研究を断念せざるを得なかった学者の卵は、東京大学やら理化学研究所やら東洋文化研究所やらにどれほどいるか、その無念の声は察するにあまりがある。

私はその轍を踏まないために、経済的な条件を絶対に軽視しないと決めたのである。経済的な利益は、真善美におとらず、人格の核心部分にそなわった原動力である。そしてさらに高次の立場に向かう原理原則である。そのことを忘れずに、私はこれから生きていきたい。




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