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教育と自発的思考について

現代世界は、大量の知識に溢れている。そのため、情報を網羅するアプローチには限界があると考える。
たしかに、一定の知識の蓄積がなければ、そもそも思考することは困難であろう。無から何かが生まれることはないからである。しかし、だからといって既存の知識を収集することに専念していたら、人生がいくつあっても足りなくなるであろう。それは現代が情報爆発の時代だからではない。古代のアレキサンドリア図書館の時代であっても、同じことである。
したがって、大切なのは自ら思考する習慣である。何度も言うように、これは受け継がれた知識を軽視する趣旨ではない。むしろ、知識を知識として確立するために、ゼロからその知識内容を自ら再構築し、先例と照らし合わせることが欠かせないという意味である。つまり、伝統の継承はすぐれて創作的であり、また逆も真である。
それゆえ、枢軸時代以来、二千年を超える伝統と、「私」の思考は等価である。「私」はそのような伝統の結節点であると同時に、その伝統を自ら創発し、新たな方向へと導く者である。それが一人称の私の存在意義である。
では、教育において「自ら思考すること」は教えられるのだろうか。ある意味で、それは誰にも教えることはできない。なぜなら、この世界において、私以外の人々は、歴史上の人物も含めて、皆他人だからである。過去、現在、未来に至るまで、私という人物は一度切りしか登場しなかったし、これからも登場しないのである。私は1900年には存在しなかったし、2200年にはすでに存在していなないだろう。それが私の生命の固有の一回性の輝きである。
もちろん、自他のコミュニケーションの断絶を必要以上に強調することは誤解を招くだろう。他人たちは、それぞれの固有の考えを練り上げ、社会へと有益な形でそれを述べ伝えている。われわれは、その最大公約数的な形態を教育と呼んでいる。その教育の存在意義は、ともかくも散逸せず、歴史的な蓄積に還元し得たという点にかかっている。
とはいえ、すべての教育は、つまるところ、すでに出来上がった体系と基準を教えるに留まっている。要するに、それらの知識の中には、「私」がいないのである。
したがって、極端に言えば、既存のあらゆる知識を百科事典的に習得しているが、「私」の考えを何ら持たずにいるという事例は考えられる。(ちなみに、そのクオリア版がいわゆる哲学的ゾンビである)それは画竜点睛を欠く状態である。
したがって、尚古主義にも一定の限界がある。伝統の墨守は、革新を阻害し、個人の発想の自由を抑制するのである。本の内容は、すべて過去である。新しい時代には、新しい器を用意しなければならない。
「法隆寺は焼けても良い。なぜなら、私自身が法隆寺に匹敵する作品を作れば良いのだから」という芸術家の発言があった。それは、たとえ確乎不抜の伝統を背負っていたとしても、それを破棄して一から始める権利を放棄してはならないという趣旨である。
思うに、教育は顕密の二重構造になっていると考える。学問知識の習得は、あくまでも顕教的な部分である。そして、教育の密教的な部分は、すでに述べたように、この「私」が「自ら思考する」という点にある。
それは実証的な体系や永遠の研究対象が向こうにあって、私がその知識の一部分を更新するために生きているということではない。むしろ、私が私自身の問題を闡明させるために、研究されて来た古典のあれこれを応用するということである。
なるほどそれは独断をまぬかれない態度であろう。研究と称するトンデモな学説はそのような自己絶対化の驕りから生まれるという指摘があるかもしれない。
もちろん、学問史の伝統の中に自らの体系を位置付ける努力は必要である。なぜなら、それが「私」を首尾一貫して理解する条件でもあるからである。このような意味で、一見自閉的と見える私は、社会に開かれている。
しかし、だからといって私の問題意識は、当たり前であるが、他の誰とも違う問題意識である以上、既存の学問の一部がすばらしいヒントになることはあるが、答えそのものを与えることは原理的にあり得ない。
学問は、正真正銘、問いの提出である。つまり、ある言論空間を定義することである。しかるに、その空間内部で論争し、ある一つの思想を導き、普及宣伝に努めることは、学問というより社会活動である。(念のために言えば、それは役割分担であり、優劣ではない)
すでに、私は「自ら思考すること」を教えることについて、悲観論を述べた。では、厳密な意味では絶対に「自ら思考すること」は教えられないのだろうか。「馬を水たまりに連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのだろうか」
結論、素朴な言い方をすれば、「背中で教える」ということになるだろう。
決して言語は万能ではない。水の冷たさは水そのものによって表現するしかない。夕焼けの赤さはクオリアがなければ説明不可能である。哲学や教育が言語を伝達媒体とする以上、それらが万能でないことは当たり前である。それゆえ、「背中で教える」式の、暗黙知の次元を召喚しなければ、自発性を喚起することは難しいのである。
つまり、先生自身が、勉強と思索を楽しんでいる姿を生徒たち自身に黙って見せ、その魅惑を感染させることが重要である。それは、「今は役に立たなそうでも、これから必ず役に立つ」とか「君たちはこの学びによって、全くの別人へと変わるから、学びの意味は今の君たちには与えられない」といった無意味なレトリックを弄することの対極である。
少なくとも、そのような自発性を、最大公約数的なカリキュラムの中に取り込むことができたら、奇跡のようなものである。何度も言うように、それは文科省と東大という上から降って来たシステムの中で、ひたすらに学問のピースを細かくして、選別の道具としているに留まる。まさに悪しき意味でスコラ的である。
ついでに言えば、日本人がペーパーテスト一本主義を信奉するのはちょっと驚くほどである。九品官人法から科挙へ!しかし、家柄、土地柄、経済力、家族関係、教育方針、遺伝子、能力、友人関係など、それぞれの出発点が皆違う以上、形式的平等の網を一律に掛けたところで、不条理を排した結果が出るわけはないだろう。有り体に言えば、出来レースだからである。そして落とすべき人を落とさず、落とすべきではない人を落とすという結果となる。余程の楽天家でなければ、現行の科挙式のペーパーテストが最善とはまったく考えないだろう。
自ら思考することは、結局、自らが勝手にやるべきことである。もしかしたら、無償の愛レベルで親切な他人がいたとしたら、「君は自ら考えることができるのに、その権利を放棄しているのはもったいないね。下手でもゼロから何かを作ってみる練習をしてみたらどうだろう?算数でも文章でも絵でも音楽でもいい。それこそがほんとうの学びの第一歩なのだから」と教えてくれるかもしれないが、そのような先生との出会いはむろん稀である。

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