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遺伝と環境と努力を考える

一般論として、人間の人生は、遺伝、環境、努力といったファクターによって左右される。その中で、どのファクターを優位に考えるかについては、さまざまに意見が分かれている。

なお、遺伝は先天的要素であり、努力は後天的要素である。そして、環境は親から与えられながら、他方では年齢を重ねると自ら変更可能であることを踏まえれば、その中間であると考える。

そして私の立場は、一言で言えば折衷説である。つまり、遺伝、環境、努力は、どれも同じくらい重要ということである。言い換えれば、どの要素についても、その決定力は全面的ではなく、むしろ等しく三分されると考える。

たとえば大学受験で考えると、ある学生が有力大学に合格するに当たっては、もちろん持って生まれた知能も合否を左右する。簡単な分数の計算ができない低い知能で、大学受験を乗り切るのは難しいからである。

ただし、それだけではなく、試験勉強に専念できる校風や、親の学歴や経済力や家庭環境、また尊敬できる先生との出会いも大切である。なぜなら、人間は放って置くと周りの環境に感化される生き物だからである。「試験勉強は奥が深く魅力的だ」と考えている人をたくさん周りに揃えれば、おのずと成功確率が高まることは容易に推測できる。(いわゆる名門中高一貫校の価値はここにあると思われる)

ただ、そのような遺伝や環境に恵まれたからといって、自動的に合格が保証されるわけでは全くない。もちろん、劣った遺伝や環境をはねのけて努力一辺倒で合格するのは至難の業である。しかし、だからといって先天的な要素や周囲の後押しがいくらあっても、自ら前へと進むことがなければ、仏作って魂入れずという結果に陥るからである。

例えば、学歴があっても社会人としての総合的なバリューが微妙な人はいくらでもいる。そういう人は恐らく生まれ持って与えられたものに甘んじて、自ら道を切り開く努力をあまりしなかったのであろう。逆に、低い学歴をみずから良しとせず、後天的な自己研鑽を積むことで、社会人として際立った実力を身に着けた人物もいくらでも観察できる。立身出世に当たり、学歴は有利な条件であるが、あくまでもそれは緩やかな相関関係である。したがって、自分自身がその例外となる外れ値となることは可能である。

以上のことから分かるのは、努力の重要性である。言い換えれば、さまざまな創意工夫や自己研鑽を月単位、年単位の長いスパンで積み上げることである。これは小学生にも分かるくらい平凡であるからこそ、真実味のある教訓である。

そもそも、この記事を読んでいる人は、常用漢字を読むことができるだろうが、そのような実力も小中学校九年間の勉強の産物である。このような例はいくらでも挙げられる。

さまざまな専門学校では主に二年制の課程により、まったくの素人たちを現場で通用する新人に鍛え上げる。四年制の大学では、法律の素人の学生を法的リテラシーのある人材に育成する。中には法曹関係者となる者もいる。大学の医学部では、六年間のカリキュラムにより、優秀とはいえ医学の知識は白紙の学生たちを医者に育て上げる。

このように、年単位の努力研鑽を積み重ねることで、まったくの素人は、さまざまな形で有力な人材へと変わるのである。このことからも、努力の意義は明らかであろう。このような自由の意味すら、遺伝的な決定論の範疇に還元しようとするのは、常識に反する極端な立論であると考える。

人間は、無限の可能性を持ってこの世に生まれてくる。しかし、年齢を重ねると、その可能性は段々と減少するのが常である。人格の可塑性は、誕生の原点に近いほど、高いからである。

したがって、子供や学生はともかく、大人となった二十代以降の人間に、「無限の可能性」を説くのはきれいごとかもしれない。しかし、可能性=希望は、常に人生に残されている。したがって、自棄にならないことは人生の原則であると考える。

人によっては、おのれの遺伝や才能の乏しさに希望を失い、悪しき宿命観に囚われることもあるかもしれない。しかし、先に述べたように、遺伝をどんなに大きな要素とみなしても、あくまでもそれが絶対ということはあり得ない。百歩譲って、人間が遺伝子の乗り物であるとしても、その乗り物の大まかな方向性はコントロール可能である。そうでなければ、日々の行動の中に甦る自由の感覚が、すべて脳の錯覚という話になってしまうが、これは背理だからである。

したがって、人間は「変えられるものは、あくまでも変えられる」のである。もちろん、自己研鑽をどんなに積み重ねたとしても、もともと凡人に生まれた者は、天才にはなれないであろう。しかし、努力して凡才の中のトップレベルの人材になれば、たいがいの活動分野においては、飯を食うには十分である。また、承認欲求や自己肯定感や生きがいも満たされるであろう。

結論としては、以下の三つのことが言える。

・人間の人生は、遺伝、環境、努力という要素に三分される
・遺伝や環境を考慮しても、努力や自己研鑽の意義はあくまでも保たれる
・凡才の中のトップレベルの人材になれば、それで十分である

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