見出し画像

思い込みが苦しさを生む

人は三つの執着によって苦しむ

①求めるものを得たいという執着(だがかなわない)。
②手にしたものがいつまでも続くようにという執着(やがて必ず失われる)。
③苦痛となっている物事をなくしたいという執着である(だが思い通りにはなくならない)。  
では、これらの苦しみが止むとは、どういう状態なのだろうか。
それは、苦しい現実そのものではなく、苦しみの原因である〝執着〟が完全に止んだ状態なのだ。
──サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ


どんな判断であれ執着してしまうと苦しみが生まれる。
現実は「無常」であり変わりゆくもの。「こうでなければ」という自分や相手への期待は「判断」でありアタマの中にあるもので現実には存在しないもの。
「ない」ものを「ある」ものだと思ってしまう心理を仏教では「顚倒(てんどう)」と呼ぶがわかりやすく言えば「勘違い」のことである。
目の前の現実の方を中心に生きるべき。

苦しみ続けるより苦しみから自由になることを人生の目標にするべき。


「慢」という心の病気

「自分が」「あの人が」という思いが”心に刺さった矢”であることに、人は気づかない。正しく見る者に、苦しみを繰り返すこだわり(自意識)は存在しない。
ーウダーナヴァルガ<観る>の章

人を苦しめる判断の中には「自分は偉い」「正しいはずだ」と肯定しすぎる思いもある。
そういった思いは自惚れゆえの失敗を招く。
本当は自分も他人も判断しないことが一番。


私が言葉を語るのは、相手に利益となる場合である。
相手に利益をもたらす真実の言葉であれば、相手が好まない言葉であっても、語るべき時に語る。それは相手への憐みゆえである。
ーマッジマ・ニカーヤ

承認欲求だけを満たすだけの「判断」は有益ではないから捨てる。
相手にとって真に有益な言葉だけを発する。



人と人が関わる際にはどうしても見解の違いが出てくる


「これはどう考えても自分が正しい」と考えることもあるでしょう。
しかし「どう考えても」というその考えは自分のアタマのみで都合の良いように考えたことである以上「正しい」のは当然のことです。
だからといってその考えが正しいとは限らない。
なぜなら対峙している相手だって同じように考え立場も体験も脳も違うのだから。

逆説的な考え方になるら「正しい理解」とは何事も「正しいと判断しない」理解のことなのだ。


本日はここまで

◎今日の呟き
ちょっとしたこと、例えばぶつかってきたのに謝りもしない人がいた時「この人はどんな育ち方をしてきたんだ」と信じられない気持ちになることがあります。
ただそれもいろんな可能性があります。
それどころじゃないくらいに心理的な心配事に囚われていたり、ぶつかったことに気づけない鈍い人だったり、反対に相手が「ぶつかってこられた」と感じていたり。
瞬間的に不快な感情が流れますが、肉を食べずベジタリアンになったあたりから目には見えない可能性を広げて相手を許容することができるようになった気がします。

「正しい」と決めつけないことで、執着から離れ苦痛を感じにくくはなったので「正しい理解」についてはいうことはありませんが、「相手にとって有益なことだけを発する」はコミュニケーションにおいてそんなのばっかり言ってられませんからね〜。
笑い合えるコミュニケーションには冗談も必要でしょうし、有益な情報ばかりだと「アイツ真面目すぎてつまんねえ」なんて話になりかねませんから、相手にマウンティングとるようなコミュニケーションはやめておくくらいで丁度いいんではないかと個人的には思いました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?