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宝塚花組版『ドン・ジュアン』感想〜マリアが普通の娘になって何が変わったのか?〜

永久輝せあと星空美咲が新生トップコンビとなったプレお披露目公演『ドン・ジュアン』を観劇した。これまでに雪組で望海風斗と彩みちるが演じたものを映像で2回、宝塚の外で藤ヶ谷太輔と真彩希帆が演じたものを劇場で観劇し、3バージョン目の観劇になるが今回は非常にしっくりくる演出だと感じた。

まず前提として、ドン・ジュアンという作品、オリジナルがあって生田先生が潤色・演出をしているわけだが、楽曲は素晴らしいし、タップダンスなどカッコいい演出も多く、とてもいい作品だと思う。一方で、作品のテーマがスッと入ってくるかという点については、過去のバージョンは正直消化不良だと感じていた。何故、過去のバージョンでそんな風に感じていたのか、それが今回どう変わったのかを考えてみたい。

作品のテーマと違和感

本作のテーマはズバリ『愛の呪い』だろう。人を愛するということは素晴らしいことだけれども、愛するが故に嫉妬したり、憎しみを抱いたり負の感情を増幅させてしまうこともある。そんな中で、呪いを断ち切って自ら死を選び、愛を全うするドン・ジュアン。それが本作のラストであるのだけれど、これまではなんともスッキリしない想いでラストを観ていた。

何がしっくり来ないのか?それを改めて考えてみると大きく2つことが原因になっていたと思う。一つ目は、ドン・ジュアンが最後に自己犠牲を選ぶことが不自然に感じ感情移入できなかったこと。ずっと自分本位だったドン・ジュアンが騎士団長のあの程度の煽りで死を選ぶだろうか?死を選んだドン・ジュアンは、あれほど周りから悼まれるほど愛されていただろうか?こんな違和感のせいで気持ちが置いてけぼりになってしまった。
もう一つは、ヒロインのマリアがドン・ジュアンのとばっちりを受けた被害者に見えてしまっていたこと。本来なら人生が交わることなく、幸せな人生を送ったかもしれないマリア。それがドン・ジュアンと騎士団長のせいで狂わされて不幸になってしまった。そんな風に見えてしまうせいでドン・ジュアンの自己犠牲もまた自分勝手に見えたのもまた違和感の大きな原因だった。

ヒロインマリアの造形の違い

今回の花組バージョンで作品のテーマに対する違和感をほとんど感じなかったのは、作品のヒロインマリアのキャラクター造形の違いが大きいと感じた。彩みちる、真彩希帆、星空美咲、3人のマリア像を比べてみる。

彩みちるマリアは、芝居巧者の片鱗を当時の雪組で既に見せていた。彫刻に人生を捧げる変わり者の娘、そんなイメージ。だから立派な騎士団長の像を完成させるも、愛の呪いに囚われドン・ジュアンのために自分で像を壊してしまう。

真彩希帆マリアは、彫刻家としてのベースラインは維持しつつも、彼女のヒロイン性によるものか純真無垢なイメージが強い。

では、星空美咲マリアはどうだったのか?私には恋する普通の娘に見えた。もちろん彫刻家という設定はそのままだけれど、彫刻への情熱は感じられず、束縛型の彼氏ラファエルからの逃げ場としてアトリエや彫刻がある。だからドン・ジュアンと本当の恋に落ちた後は、彫刻なんてそっちのけ。手は彫刻家の傷だらけの手から、真っ白で綺麗な娘の手になるし、騎士団長の像は完成すらしない。恋する普通の娘マリア。これが星空美咲マリアのイメージ。

作品のテーマへの影響

マリアが普通の娘になって何が変わったのか?個人的には、被害者っぽく見えなくなったことが大きいと感じた。作品のテーマである愛の呪いは押し付けられるものではなく、自ら囚われるものでなくてはメッセージ性が弱くなってしまう。

この作品の登場人物は皆、愛の呪いに囚われている。
欲望の赴くままに生きてきたけれど、本当の愛を知って嫉妬や憎しみに囚われるドン・ジュアン。
ドン・ジュアンの友人という肩書の下にエルヴィラへの想いと苦悩がにじむドン・カルロ。
一夜の過ちの後、ドン・ジュアンの妻として自分だけは特別と信じ、嫉妬に狂うエルヴィラ。
恋人の大事なものを奪う一方的な愛を注ぎ、裏切られて憎しみに囚われるラファエル。
そして、ラファエルという恋人がありながら、本当に惹かれる相手ドン・ジュアンと出会い、恋人を裏切るマリア。

マリアが普通の娘になったことで、最後のパーツがピタリとはまり、ドン・ジュアンという作品のテーマがクリアに浮かび上がったように感じる。もちろん、騎士団長の亡霊の導きはあったにしても、愛の呪いに囚われたのは自分の行いであり、だからこそドン・ジュアンの自己犠牲は尊いものとなる。マリアが普通の娘になったことで騎士団長の像は完成しなくなってしまったけれど、二人の愛の花は完成し、作品もまた完成をみたのではないだろうか?


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