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~ なぜこんなものを作ってるのか ~

幸せをあんまり感じたことがない。でも一度だけ「こんなに幸せでいいのかな」と泣けてきたことがあって、それが何年か前、夏の夕暮れ時に田舎道を娘の手を引いて歩いていた時だった。

「あそこの木のお花がきれい」と舌足らずに言う娘はまだよちよち歩きで、小さな甚平さんを着て草履履きだった。こちらが腰をかがめないと手が伸びきってしまうくらい小さいのに、新しい言葉を覚えただけ話したいようで、見たもの聞いたもの感じたものをすべて言葉にしようと一所懸命に話してくる。

「お日様きれい」「あそこにわんちゃんがいる」普段大人の頭に渦巻いている否定的な言葉はひとつもない。あまりに無垢な言葉に返す言葉が見つからなくて「そうだね」「きれいだね」しか言えず、柔らかくて小さい手を握っているうちに不意に涙が浮かんできた。

「こんな時間はもう来ないんじゃないか」田舎の夏祭りの鳴り物を稽古する音がかすかに聞こえる。小さな娘は小鳥のような声で話し続けている。

親が子どもを見るときに、その時間軸はこんな昔の思い出と、今と、見えない不安だらけの未来がランダムに交錯する。子どもはただただ今と未来を見ているのに。

その、本当に大切にしたい瞬間をどうにか固定出来ないかと思っていたら、子どもの着古した服が目に入った。元気に走って遊んで泥だらけになったのを、何度も洗濯したために擦り切れたり毛玉だらけになって、捨てられるか譲られるか売られるかのその小さな服に「なんちゃって」ではあっても命を吹き込んで暮らしの端のほうに置いとけないかなと。

ぬぐみさんはだから、ぬいぐるみではなくて子どもとの「あの時間」を生まれ変わらせたものだと思っている。子どもはびっくりするくらい早く成長してませてきてと、どんどん変化していく。でも「あの時間」が確かにあったことを忘れずに持ち続けるアイコンにこの変な生き物がならないかな。

母親ではなく父親向けかも知れない、どちらかというと。

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