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ギブアンドぎぶ。

カミュもサルトルも好き、シオランも好き。

そして今日初めて、シオランにとって二人は「敵」のような存在だったという衝撃的な事実を知った。そもそも前編ではペシミストは怠惰で衰弱な人間だと断言しているのに、「敵」や「友人」といった表現にも違和感を抱く。嫉妬や憎悪が「生」の証しだというのに、どこから攻撃的で鋭い言葉を紡ぐエネルギーが産まれたんだろう。

世界は矛盾だらけじゃないか。

度を超した「嫌悪」は「愛情」とも思われる。愛しすぎて思わず傷つけてしまったと言い訳されると何故か納得してしまう。そうね、本当の愛情とは与えることであるが、時には求めることも破壊することも「与える」行為に含まれるかもしれない。相手に「与えている」実感を与え、相手の存在を認めることになるのではないかな。訳分からないロジックに見えるけど、よく考えてみるとさ、求める人が居なければ与える対象が無くなるでしょ?ゴミが存在しなければゴミ箱の存在意義も無くなると言えばわかるかな、別にみんながゴミを欲しがることはないのに、ゴミ箱にとっては大事な大事な存在なんだよ。

人間関係においても、与える側と与えられる側に分けられているとはよく聞く話。なんとなく与える側の方が愛情深いと思っていたが、実はそうでもない。与えられる側も常に相手の機嫌を伺い、次は何を求めたらあの人は自己肯定感を得られるだろうと悩み、求め過ぎてもダメだし丁度いい具合に自分のわがままを編み出す高度なテクニックが必要だと思う。

これは恋愛だけではなく、親子や友人、ビジネス場面でも同じだと私は思う。

バランスが崩れたり、片方の気遣いが足りなかったり、与える側と与えられる側の役交代のタイミングだったり…言葉だけでは伝わらないものがたくさん必要とされている。だから極めて器用な二人、もしくは波長の合う二人でないと関係は長続きはできない。そのバランスと二人のサイクルを模索する期間が長かったり短かったりする。家族だと何年何十年もの時間をかけて探ることはできるが、友人あるいは恋人のようなかけがえのある関係だと一人一人のタイムリミットがその関係のキーとなる、のかな?


『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』ー大谷 崇

読書感想文その1でした。

70億分の1の私を見つけてくれてありがとう。