今回は、教育についての私見を綴りたい。
そもそも教育とは何だろうか。
教育とは「教え育てる」と書くのだが、
私が思う教育は、”教育”という字とはどうも合わない。
「教育」という字からは、”教える側”と”教わる側”の二つの立場が受けて取れる。
それは、一方が知らないことを知っている側が教えるということであり、
一般的に言うと、大人が子供に教えるということだ。
(大人の方が子供より知っているという前提がある)
しかし、人に何かを教えることが教育だと言えるのだろうか。
大人が子供に教えていることがどれだけ本当の価値を持つものなのだろうか。
どれだけ正当性のあるものなのだろうか。
これらの点には、非常に怪しい部分がある。
そう考えると、何かを教えるということ自体の価値が見え辛い。
私が教育において重要だと思うことは、
”きっかけを与える"
"環境を用意する”
という2点である。
何かを教えるのではなく、子供にきっかけを与えたり、子供が望む環境を用意して、あとは子供にやらせればいい。
きっかけを経て新たな考え方や価値観が生まれ、それらが子供の行動に繋がっていくことによって、子供が変わる機会になる。
また、現代の情報化社会において、子供にとってきっかけとなり得る情報自体は多いが、
大人から直接聞いたり、自分の目で見たりするきっかけが最も有効であるとも思う。
情報化社会だからこそ、実体験の価値はより高くなるのではないかと考える。
そして、環境を用意して、子供に選択肢を増やすことも重要だ。
例えば、海外でサッカーがしたいと考える子供に、アジア圏しか選択肢が無い、という状態より、
極端な話世界中のどこの国でも行ける、という状態の方が良い。
そこがダメなら終わりというより、そこがダメでも他に道がある、という状態がある方が望ましい。
(これと同じ考えを持つ仲間のマルタでの活動はこちら)『マルタサッカー留学』代表:中村
そういった中で、子供が身をもって経験し、考え、自然と学んでいくのだ。
もちろん、教えること自体を否定しているわけではない。
教えるという状況も必ずある。
ただ、
「分からないから教えてあげる」
「教えてあげる方が良くなる」
などといった「教えてあげる」スタンスの大人には注意が必要だ。
そういう大人の多くは、偏った考え方や価値観を曲げないような教え方をする傾向にあるからだ。
それが過剰になった先に、体罰が起こることもある。
言うまでもなく、私は一切の体罰を聞き入れない。
そして、成長しているのは何も子供だけの話ではない。
大人と言われる私たちも、今まさに学んでいる最中である。
正解も不正解もない、知らないことだらけの中で、日々悩みながら、試行錯誤しながら生きているのだ。
子供は大人から学べ、大人も子供から学べる。
子供から気づきを得ることも、子供のおかげで知ることができたこともあるのではないだろうか。
教育ではなく"共育"
私が思う教育とは、”共育”である。
「共に育つ」のだ。
子供だとか大人だとかではなく、一人の人間としてお互いが学び、変化し、成長していくことだ。
何より、その方が楽しいではないか。
そして、子供にきっかけを与えることができるのは、人生を楽しんで生きている大人である。
子供のように、新しいことに挑戦している大人である。
世の中に対して不満や愚痴を並べ、死んだ顔をして働いている大人を見た子供が、
どうすれば夢や目標を持てるだろうか。
私は、既存の教育という概念ではなく”共育”という心構えで、今後の日本の教育界に貢献していく。
“共育界”は、子供も大人も、上も下もなく、人と人が成長し合える世界である。
#教育 #子ども #子供 #学校
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