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日本茶を仕事にするまで

ものを作る事が好きでした。

小説を書いたり、紙面デザインをしたり、3DCGを専攻したり、写真を撮ったり、色々好きだったりします。

私、どちらかというと、どデジタルな人間です。

でもデジタルな仕事をしていると、アナログな事を却ってやりたくなります。般若心経、料理・菓子作り、手紙など手書きで。。。

小説も手書きで書くときもありますし、写真もフィルムカメラを使うときもあります。3DCG→造形までさすがには手が出ませんでしたが、今は金継ぎもしています。

大学は3DCGやエディトリアルデザイン、映像などを専攻していました。ゲームを作りたくて選んだ大学でしたが、ちょっと向いてないな、と思い断念しました。

なので就職は大学の専攻とはそこまで関連がない印刷会社。パソコンを使ったソフトウェア操作と印刷機や断裁機などアナログな製造機械も同時に扱えるので何だか丁度良い気がしました。

実際、紙や本など好きでしたので、仕事内容自体はとても楽しかったです。

しばらくして、グループ会社の3DCG制作会社へ出向が決まり、こんなところでかつて学んだスキルが役立てるのだなぁ、と不思議に縁を感じました。仕事に出来ると思っていなかった3DCGのクリエイター。1を100にする印刷と違い、0を1にするのが創作。仕事はとても楽しかったです。

果てしない勤労時間を除けば。。。

印刷時代もそうでしたが、3DCGも同じ。とにかく残業が多い。無茶な急ぎが多い。土日出勤はよくありましたし、24時を回ってからの帰宅も当たり前でした。

超絶ブラックかと言えばそういう訳でもなく、漠然とした将来の不安を抱えたまま、働いていました。20代半ばで体調不良が常態化しました。あと40年、この仕事出来るのだろうか。。。

もんもんと日々を過ごしている中、30歳になる前になにかしでかしたくなったのです。

いきなり会社を辞め、お茶処「八女」に向かいました。(色々悩みましたけどね)


さて、私は山梨出身、大学から9年間東京にいました。

何故急に八女なのか。皆に言われましたし、未だによく訊かれます。静岡じゃだめだったの、と。

そこまで深い理由はないのですが、九州という地がまず面白いな、と感じていました。茶が大陸から初めて運ばれてきた土地。嬉野、鹿児島、宮崎、熊本、東彼杵、そして八女。

土地々々で特色のある、様々なお茶。とりあえず響きが素敵な八女へ行って、縁がなかったら鹿児島、それでもなければ三重、静岡とそんなふわっとした選び方でした。どこかで出会いがあればいい、その目的地が八女であり、九州であった。これが最初に考えていたことです。

まぁ、一発目の八女でしかも星野村という、高級ブランド地の会社に拾ってもらえたのですから、縁を感じるしかなかったのです。

日本茶インストラクターの教科書をひっさげて、八女市星野村「(株)星野製茶園」で働くようになりました。

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