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『空我』

公私共に行き詰まっていて、ちょいと弱っているので、初心を思い出すことにした。
僕は『仮面ライダークウガ』(2000年放送)と言う作品が本当に大好きだ。
ちょっとおかしいくらい好きだ。

伝説は、塗り替えるもの。
オダギリジョーの(事実上)デビュー作。


どれくらい好きかと言うと、バイクの免許を取ろうと思ったきっかけも、今のバイクを選んだきっかけも、『クウガ』の影響だ。

僕が乗っているバイク、crf250l。
数年前作ったトライチェイサーのプラモ、我ながら良い出来。

見た目もよく似ている。バイクの専門的な話は一旦置いておくとして、なるべくこの『トライチェイサー』に似てるスペックのバイクを選んだし、ちょっと愛車を弄ってみますか!と思った時は、とにかく『トライチェイサー』に寄せる様なカスタムをしている。

ヘルメットとインカムの色も赤と金で合わせてみたり、細々としたところで『クウガ』を意識している。まあ、やってることは定のいいコスプレではあるんだけど、なりたい自分像に自分自身を寄せていくことは、とても楽しい。


オリエンタルな、味と香りの。
本当に当時のまま。

去年の話にはなるが、作中で主人公の五代雄介が働いている喫茶店のロケ地にもなった店にも訪れた。『クウガ』放送から20年以上経っているというのに、外観から内装まで作中の『ポレポレ』そのもので本当に感動した。自分の居る空間がオダギリジョーが、五代雄介がいた空間だと思うと、熱いものが込み上げてくる。

僕はオダギリジョーの演じる『五代雄介』という主人公が大好きだ。


「大丈夫。」

口癖はサムズアップをしながら「大丈夫。」
楽観的で、能天気で、飄々としている。
だけど、その一方で、人一倍苦しんでいるし、戦う時はひたすらに独りだ。
『クウガ』に登場する敵怪人『グロンギ』は基本的に人語を解さない。
『グロンギ』は彼ら独自の言語で意思疎通をし、作中を一貫して『相互理解は不可能な存在』として描かれ、彼ら独自の身勝手なルールで一般人を残虐で生々しい手段で殺める。

意思疎通が不可能な相手と、独りで命のやり取りをする。『正義のヒーロー』と呼ぶには、あまりにも痛々しいし、生々しい。

非公式の切り抜きシーン集なのでとても褒められた行為じゃないことは承知の上でリンクを貼らせていただくが、このクウガの『やられ』シーン集の五代雄介(オダギリジョー)の苦しみ方の異常さを感じてみてほしい。
嗚咽であり、喘ぎであり、呻きであるとしか形容が出来ないと思う。当時オダギリジョーはアフレコの度に酸欠になってスタジオに倒れ込んでたと言うが、その死に物狂いさが伝わってくる演技力だ。鬼才だよ、オダジョーは。

毎度毎度ズタボロになるまで戦って、命からがらようやく勝利しているはずなのに、いざ日常シーンになった時の五代雄介は、いつものように飄々とした明るい青年である。
でもその裏で、負傷した傷に苦しんだり、暴力でのやり取りに苦悩する様子も描写されている。

ここから先は完全に私情というか最近自分が痛感していることなのだけど、「楽観的であること、どんな状況でも明るくあること。」は本当に難しい。
辛い事があって落ち込んだり、気持ちが沈んだりする事くらいは誰にでもあるし、もう全部嫌だと思って投げ出したくなる事なんかいくらでもあるし、今の僕が丁度そうだ。これくらいの状況だったら、友人は心配してくれるし、僕も友人がこの状況だったら手を差し伸べたいと思う。

ただこれを拗らせて、極端な自己否定に陥って卑屈になったら、自分の事を好いてくれる人はどんどんいなくなっていく。「僕/私はこんなに不幸なんです!」というオーラを振り撒いて生活していては、どんどん堕ちていく。
この状況で耳心地の良い言葉をかけてくる人間は、何か良いように利用してやろうという下心のある人間ばかりだ。
僕は一度この状態になった事があるが、本当に親しい友人こそ、この状態の僕からは適切に距離を置いてくれたし、僕が自力で立ち上がるまでそっと待っていてくれていたと思う。

だからこそ、五代雄介の「大丈夫。」という言葉が本当に響く。清濁を併せ飲んで、それを飲み込んで上で楽観的であろうとする人は、本当に強い人だ。
僕は五代雄介のような人になりたいし、僕がプライベートで尊敬している人達の中には少なからずこの五代雄介イズムが流れていると思っている。

僕はごくごく一般的な成人男性だし、もちろん仮面ライダーに変身できるわけでもなければ、オダギリジョーのような大俳優には到底なれないし、別になろうとも思ってない。
ただ、"精神性としての五代雄介"、僕なりの「大丈夫。」を出来るようになれる人間にはなれるんじゃないかと思っている。

「重い荷物を枕にしたら、深呼吸。青空になる。」

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