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【進撃の巨人】マジョリティ・マイノリティからエレンの「自由だ」を考えた

ネタバレあり。

自分はこう思う!というよりは、こんな風に考えてみるのも無しではないかもしれない、という感じです。

「何か起きねぇかな…」と空を見上げていた頃は、エレンの中にはマジョリティもマイノリティも無かった。
そういう概念がきっとなかった。
漠然と、目の前に広がるものがすべて。
けどアルミンの本を見た事によって、自分たちは"制限されている"という事を知る。
この時エレンら壁内人類は自分たちがいる壁の中以外は全て巨人の支配する領域だと思っているので、それでいえば、巨人がこの世界におけるマジョリティでエレンらはマイノリティといえる。
エレンはアルミンの本によって初めて、世界におけるマジョリティとマイノリティをぼんやりと意識する。
マイノリティはマジョリティから数や力で制され、自由を奪われ、生活も制限される。
壁が壊され、ついにマジョリティによってマイノリティの命すら脅かされた。
エレンはマジョリティを許せなかった。
「駆逐してやる」は、自分たちマイノリティがマジョリティを駆逐してマジョリティに取って代わるといういわば宣言のようだ。

巨人を駆逐して壁の外を制して、今度は自分たちがこの世界のマジョリティとして降り立つはずだった。

けど、グリシャの記憶でみた外の世界では、自分たちはユミルの民というマイノリティだった。その中でもパラディのユミルの民は島の悪魔と呼ばれ、ユミルの民の中でもさらにマイノリティに位置する存在だった。
マイノリティは世界の自由を謳歌することが難しい。
マジョリティから差別や制限をされる。
それが自分たち。
壁の外に出たところで、自分たちはマジョリティにはなれない。
マイノリティが別のくくりのマイノリティになるだけだった。

エレンはマジョリティでありたかった。
マイノリティと分類されてマジョリティから存在否定されるくらいなら、マジョリティを排除して自分がマジョリティの座につく。
そうして得たマジョリティの地位が、自由であり、「あの景色」だった。

だから、それを成し遂げるには、たとえ相手が善い人でも、子どもでも、踏み潰さなければならなかった。
その人らがマジョリティである以上、排除しなければならなかった。

もちろん、マイノリティであってもそんな事関係なく自由に過ごせる世界が理想だし、もっと言えばマジョリティとかマイノリティとかの概念なく1人1人が互いに尊重しあう世界が理想で、今わたしたちの現実世界はそこに向かうために一歩ずつ進もうとしている。
エレンの思考は破滅的だ。

けど、実際問題、世の中ではマジョリティが常に基準となるので、マジョリティであれば世の中に不自由や不平等を感じる事が少ないのは事実としてある。
言い方を選ばず言えば、マジョリティは自由を当たり前に享受している。

それでも、きっとアルミンなら、マイノリティも当たり前に自由に過ごせる世界、すべての人が尊重しあえる世界になると信じて進む事ができる。破滅的な考え方には決して染まらない。
きっとハンジさんもそういう人。
例えいまは全く手ごたえがなくても、今日はダメでもいつの日か、って信じて進める。
森から出られなくても出ようとし続けられる。

けどエレンは、ある意味現実的で、森からは出られないんだから、出ようとし続けるだけじゃ何も得られないと結論づける。
出られないなら焼き払う。
その結果が地ならしであり、得た「自由」であり、ついに無敵のマジョリティとして世界に君臨した瞬間だった。
このときエレンが子どもの姿をしているのは、「駆逐してやる」と誓ったあの瞬間から始まった全ての道のりが、地ならししている今この瞬間に繋がり、ついに成果に辿り着いたからなのかもしれない。

エレンのした事は、確かに度が過ぎている。
人として超えては行けない一線を遥かに飛び越えている。
でも、どうしてもエレンを完全に責める気になれないのは、共感できる部分がたくさんあるからだ。
誰だってマジョリティから制限なんてされたくないし、マイノリティの立場だって自由を謳歌したいし、"マイノリティが頑張っても何も変わらないマジョリティの世界"を見続けていたら絶望だってするし、強硬手段に出てしまいたくもなるだろう。
ただ、だからと言ってエレンを肯定もできない。

人の頭の中には同時にいろんな考えが存在するから、エレンも、すごくたくさんいろんな事を考えていたと思う。
破滅的な思考に染まった自分への絶望や罪悪感。
巨人としての寿命が迫る焦り。
別のやり方がないかどうかの模索。
仲間を救いたい。島を守りたい。
ミカサやアルミンを守りたい。
他にもたくさんあった考えの中の一つとして、こういう考えもあったかもしれない、と思った。

進撃の巨人が世界で読まれているのは、マジョリティとマイノリティの間に普遍的に存在するもやもやを、誰もが感じ、傷つき、傷つけ、苦しんだりしているから、というのもあるかもしれない。
その苦しさを代弁してくれるのがこの作品の登場人物のみんななのかもしれない。

という読み方もあるかなと思った。

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