【改題】ノンバイナリーの肩書きは私に必要か 性自認と性差別と性表現と…

【22.09.18追記】

タイトルを変更した。変更前のままだと、まるでノンバイナリーという存在自体に疑問を投げかけているかのような印象を受けたため。以下の文章はあくまで当時、筆者自身についての感覚を追ったもの。


性自認と性差別の関わりについての意見を目にする機会があったため、思ったことをメモ代わりに書いていく。
支離滅裂な内容になるかもしれないが許してほしい。性自認、性表現、体の性、性差別やジェンダーバイアスに関する他人の意見を知りたいと思っている人に1ミリくらいでも役に立つことがあるかもしれないので多少雑な文章でも公開してみる。

以前、自分の性をノンバイナリーと定義したが、それが自分にとって完全に的確なラベルであるとまでは考えていなかった。今現在抱いている自身の性に関する感覚は、体の性別、社会から刷り込まれたジェンダーバイアスの上に成り立つ自認でしかない。不明確なので当然変化していく可能性がある。

性自認、性表現、ほぼ確実にどちらかを持って生まれる体の性別。それらは当たり前だが互いに密接に関わり合っている。
そしてあまりにも構造が複雑かつ当事者にしか感覚が理解できないことも多いので、何がどう違うのかよく分かっていないとすぐにごっちゃになってしまう。
「私は女性として生まれたが違和感があるのでどちらでもない性別として生きたい」と言うとする。それに纏わるエピソードとして、昔からピンクでフリフリの女の子の服が苦手だった、お嫁さんにもなりたくなかった、外遊びが好きで髪も短くしたかった、女性らしい体つきになればなるほど嫌悪感が増してきて……等々と語るとする。
すると、「ピンクでフリフリが嫌いなのは単なる好みだから女であることと矛盾しないのでは?」「女性として結婚に抵抗を感じるのは女性が不利益を被りやすいからでは?」などなどそれって本当に性別まで変える必要のあることか?その嫌悪はどこからきたものなのか?という議論がとめどなく派生していき収拾がつかなくなっていく。
何が性自認で何が性表現で何がセックスで何がジェンダー?何がバイアスで何がミソジニーで何が差別なのか?

セックスとジェンダーにまつわるあらゆる正確な知識を備えた人なんてそうそういない。だからそれらに纏わる議論はすぐ混迷する。

この記事で、私は自身がノンバイナリーに相当すると定義づけた。

だが、それって本当に的を射た表現なのだろうかと記事を書いた後も延々考え続けている。

というのも、記事では所謂女の子らしい趣味に興味が向かなかったことなどを違和感に気付いた切っ掛けとして上げたが、それ自体は性別そのものから解き放たれたいという欲求に直接結びつけるべきなのだろうか、……とちょっと悩み始めたからだ。

一応、記事の中では触れられなかったが、性別や性表現について悩んだ理由には趣味趣向だけでなく自分の肉体そのものへの違和感や嫌悪感もあった。二次性徴を迎え、現れ始めた胸の膨らみや体の丸みに一時期強烈な抵抗感を感じていた。幸か不幸か胸に関してはほどほどの膨れ具合で止まってくれたため心底ほっとしたりした。だがそれすらも、社会での女性の差別的扱いや性的な搾取への怯えによって生まれた女性体でいることへの嫌悪なのではないか、と思ったりした。

実際、自立して自己決定権を持って、自分の趣味に合う服や暮らし方を選べるようになるにつれて自分の持つ女性の体に対しての抵抗感は薄れつつあるのだ。女性の体でいられて嬉しい、とまでは特に思わないが。下乳が何かにつけて痛くて邪魔だし。

そんな中、つまり私が真に求めるのは、身も心も性別から解き放たれることではなく、「私にとって本当に必要な時以外、自分の体の性別と自分の他の性質を結び付けないでほしい」ということなのではないかと気が付いた。

私にとって、女性の体を持って産まれてきたこと、女性の体を持つことは自身が望んだことではなく、誇りでもなく、決して譲れないアイデンティティでもない。
ただ、女性の体を持っているという事実自体を否定する気もない。

私がどれだけ好き勝手に暮らしたいと思っていても、女性の体を持って生まれ女性としての戸籍を持つ以上、差別をする側は私をただの女性だと見て差別的扱いをするし、犯罪者には私が概ね男性より力が劣っている女性であることを理由に暴力を振るわれる恐れだってある。

女性器を持っているので女性器に関する病気にかかる可能性もあるし、どっからどう見ても乳房が付いていて男性器はついていないし体を完全に作り替えたいと思うほどには違和は感じていないため、入るとしたら女子更衣室に女風呂を選ぶ。(ただこれはこれで、一応私はバイセクシャルなので色々と思うところあり。また別の記事でまとめます。)

絶対に必要だと分かれば、私は私の体と戸籍に基づいて女性として振る舞うことはできるし、女性の立場として物を言うことも出来る。必要だと納得出来るなら、女か男かの2択のどちらかに自身を収めることは可能だ。

ただ、必要もないのにわざわざ女と名乗りたいと思わないし、何よりも自分の言動を無闇に体と戸籍の性別と結び付けられるのが嫌なのである。いっそ体の性別ごと捨てられたらという思いに繋がってしまうほど嫌なのだ。自分の言動の発端が例えミソジニーや差別への恐れだったとしても、それでも他人に自分の言動に対してとやかくジャッジをされたくはないのだ。自身の中にある差別的思考を改め、それによって身の振る舞いを変えるかどうかを決めるのは自分自身の役目だ。

もっと端的に言えば「極力、ジェンダーバイアスから逃れたい」というのが私の性自認、望む性表現の根源なのだろう。

じゃあ、どうやって逃れたらいいのか。どうやって凝り固まったバイアスを解いて生きたらいいのか。

そう考えた時、結局また巡り巡ってノンバイナリーというラベルに行き着いた。

自分の体は女性。だから私は疑いようもなく、体もジェンダーも女だ。だから私は女として生きる。

私自身がそう思いそう決めて生きるとなると、女とはこういうものであるという未だ残る社会の洗脳に結局屈してしまい、“らしくないもの”への世間の迫害を恐れて女らしくあることに異様に固執してしまうようになる気がする。

もちろん、洗脳には抵抗すれば良いし、私よりもっと強く賢い人ならばわざわざジェンダーバイアスから解き放たれたいなどと強く意識しなくても、周りの言葉など気にせず本当の自分らしさを追い掛けて生きていけるかもしれない。

だが惑いやすい私にとって、ノンバイナリーという言葉が、海の波に流されないよう守ってくれる小さな島のような役割を果たしてくれるのだ。囚われやすい性格が、逆に、決めつけられたくないという意思に強くしがみつく力になる。

私はオンナとかオトコとか、そういうどっちかしかない言葉で測れる存在ではないんだ。

多少極端な主張であっても、そうやってニュートラルな立場に立ちたいと望むこと自体が、世間の人々が無意識に従い時に不利益をもたらす二極化した女らしさ、男らしさの違和感に気付く視点をもたらしてくれた。

自身が持つ性別を通して考えなければならないことがいくつかは世の中に存在するが、別に性別と結びつける必要なんてないことは多分もっと多くある。今は社会の仕組み上性別と結び付けなければ仕方の無いことも、新しい仕組みや新しい道具があれば結び付ける必要がなくなるかもしれない。

いつか性差別がもっと緩和され、女でいること、男でいることそれぞれに目立ったデメリットがなくなれば、たくさんの人が体の性別に関係なく自分のしたい格好したいことを選んで当たり前になるかもしれない。そうなったら、性自認やフェムボイ中性、のような概念は曖昧になっていくかもしれない。その時は私もノンバイナリー島を出て安心してあちこち泳ぎ回るようになるだろう。

だがそれまでは、ノンバイナリーを自分を守ってくれる拠点として有難く使わせてもらおうと思う。ニュートラルを理想とする感覚そのものが、バイアス、差別、ミソジニー、ミサンドリーに丸め込まれてしまわないための守りになってくれると信じている。

自身の性に違和感を覚える人、自身の性に降りかかる差別に抵抗したい人。それらには切っても切れない縁があると思うしどちらか一方をなかったことにすることもするべきでは無いと私は思う。

どんな人も不当に生きる場所を奪われず望む人生を歩めたらいい。結局はそれに尽きてしまう。

とりあえず私は引き続きノンバイナリーを緩く名乗りつつ生きていくことにした。

※追記

体の性までは変えなくても良いというのはあくまで私自身についてのことであり、体の性を変えたいと願っている人にはその人自身の望みや受け入れ難いことがあり、それは当事者自身にしか分からない感覚のはずだ。性自認や性趣向に関する概念の確立が発展途上である中、自身の性に関するどんな認識も間違いとは言い切れないと思う。



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