死にたい=

死にたい、に至るまでの様々な要因があると思う。意味もなく悲しい、辛い、不毛な状況や制御のできない感情、どうしようも無い焦燥感やバイオリズム。それらから逃れたいが為に、死にたい。という衝動や願望に囚われてしまうのではないかなと思う。


であれば、それらの要因が無ければ、あるいは、それらの負の感情が湧いてこなければ、死ななくてもいいという事になるのかもしれない。なら、死にたいは、=「これ以上何もしたくない」「何も感じたくない」とも言えるなと、少し前に思った。


死にたい、は重い言葉だと思う。安易に人に言い出せない。本当に行動に移してしまうその瞬間まで、言えない人もいるかもしれない。



何度もLINEのメッセージを書いては消して、通話のボタンを押すだけの事が出来ない。おかしくなってしまいそうな感情の渦に、誰かを巻き込むことがどうしても出来ない。生きているだけで辛いと感じてしまう自分が許せない。誰からも許されると思えないし、許されて依存してしまうのも怖い。こんなに苦しくて、解放されたいのに安心したいのに、愛されると突き放したくなる。温もりの中で安心して受け入れる事が出来ない。突き飛ばして傷つけたくなってしまう。胸がじんわりと暖かくなるのを感じる度、これは束の間私に与えられているもので、いつか無くなるものだと思い込んでいる。無くなるかもしれないという不安に耐えきれず、自ら嫌われるような事をしてしまう。他人との距離感が分からない。本当は、ただ、楽しくいたい。簡単なようでどうして自分にはこんなに遠いものなのか、まるで縁のない事のような、どこか他人事のような、おとぎ話のような、もし叶うことがあればそれは奇跡のような、大袈裟かもしれないけれど本当にそう思う。安心したい。と望む一方で、幸せになってたまるかと、私を恨んでいる私に気付く。



私は私を、多分もっと愛してあげなきゃいけない。他人から愛をもらった時に、きちんと受け取る為に、愛される事に慣れておく必要があると思う。自分が自分の事をずっと責め続けていた事にも、ちゃんと気付かなければと思う。自分が楽しいこと、嬉しいこと、好きなこと、どれだけ知っているんだろう。自分をいじめることばかり得意になって、自分が幸せになる事を受け入れられない。


変わりたい。死にたくない。本当は。ネットに死にたいと検索をする時、誰か同じような人がいないかと思っていた。相談窓口で話す勇気はなかった。ただ、気持ちを共有できたら、と思った。



けれど死にたいというワードは、どこかでタブー化されている気がする。確かに頻繁に安易に使うものではないと思う。死は漠然と恐ろしいものだから、みんな触れたがらないのも、近寄り難いのも分かる。けれど、崖っぷちでもう後がなく、死ぬ方法まで考えてそれでもなおギリギリのところでとどまっている人たちに、小さくていいから拠り所があればと思う。今この時、ひとりではないという感覚があるだけでも、違うのではないかなと思う。


わたしはいま気分変調症という病名が診断されて3年が経ち、現在も投薬治療中で、希死念慮がある。強い自殺衝動が起こった時は薬や、どうにか耐えることでやり過ごしている。とてもつらい。とても苦しい。いつか本当に死んでしまうのではないかと思って怖い。不安は不安を呼んで、焦燥感やストレスから自分が死ぬ時の妄想が止められない時がある。認知の歪みに気付きながらも、世界とくっついてしまっている事の難しさに日々打ちのめされるような気持ちでいる。


正直もう、ひとりで抱えるには情けないけれど重くなってきた。もし、同じような人がいれば、一緒に支え合いたいなと思う。素直に吐き出せたり、また話している人を見ることで気持ちを共有できれば、少し落ち着くかもしれない、と、思って。


最近ふわっちという配信アプリを登録して、まだまともに配信できていないのだけれど、もしよかったら一緒にお話しましょう。
noteでも引き続きその日その時思った事など書いていく予定です。良かったらフォローやコメントをしてくれたらうれしいです。


 
今日のところはこの辺で。おやすみなさい。
また書きます。

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