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出会いや気づき、それは財産【2023年喜界島中編】

皆さんこんにちは。村おこしNPO法人ECOFF学生支部のつっつです!

前回に引き続き、喜界島コースに参加した時の備忘録をお送りします。
具体的には、喜界島について発見したこと、島民との交流について紹介する文章になっています。
前編はこちらから↓


【過去と共存し前をむいて】

この島を歩き回って驚いたことがいくつかある。

1つ、この島には信号が一つだけあるということ。

人口は実に3000人。
どこに行こうと車通りはほとんどなく、車道の真ん中を自転車で走っても誰の迷惑にもならないような島だ。
交通を規制する必要などない。

しかし、比較的都会部とされる地域に、一つだけ信号があるのを見つけた。
その理由を世話人の奥さんはニコニコと話してくださった。

「あれは子供たちのためにあるの」
「将来島からでたとき、信号を知らなかったら現地でパニックになるでしょ?」

なるほど理にかなっている。

ちなみに、喜界島にも高校はあるが大学はない。
大体の人が専門学校や就職のために島の外にでるという。

1つ、おびただしい数の墓地。

しかもそれはメインの道路に接するように並んでいる。

決して昔のものではなく、例えば「山田ノ墓」の近くに「山田」の表札があり、人が住んでいる。

喜界島は島の中で32ほどの地区に分かれており、地区ごとの結束が非常に強いときく。
恐らく地区ごとに墓地があり、一箇所に墓がまとめてある。

そんな中、墓地から離れたところにポツンと一つの墓が見かけることがあった。

「ひょっとして、村の掟に反して村八分にされたとかですか?」

…流石に違うらしい。

1つ、戦争の歴史と共に生きていること。

ボランティア途中、2日ほどの休息日をいただき、ガジュマルの木や百ノ台展望台、鍾乳洞を見学した。

展望台に向かう時、世話人は教えてくれた。

ここは大切な場所だと。
第二次世界大戦のとき、敵兵の侵略を見張る監視塔として機能していた、と。

鍾乳洞でも案内板にはこう記載されていた。

ここはかつて防空壕であった。
しかし今は一部が削り取られているから、そのままの姿ではない。

北海道育ちの現役大学生には正直それらは縁のない光景であった。

戦争の舞台となったことは形を変え、現代の噂としても根付く。

具体的には、怪談話として。

中西公園だっただろうか。
夜中、参加者の1人が、世話人の弟と車に乗っていた時、男の霊をみたと言っていた。
2人で暫く黙ったあと、沈黙を破ったのは世話人の弟の方だった。
ただ一言「みたか」と。
それは間違いなく海外の兵隊の格好をしていたという。

この島には戦争の記憶が沢山眠っている。
その存在を匂わせながら。

時間が止まっているとはまた違う。
彼らは過去を背負い、今を生きている。
それをひしひしと感じている。


志戸桶海水浴場の石碑。「平家上陸之地」と書いてある。
「足を掴まれ海の底に引きずりこまれる」と言われており、地元の人は誰も寄りつかないという。

【決して結ばれなかったはずの縁】

活動した分だけ出会いがあった。
特に喜界島の島民は揃いも揃って皆フレンドリーであった。

世話人の園田裕一郎さんと奥さんの綾乃さん。

島出身のお二人。お互い島の外でにでて社会人生活を送っていたが
「島の外にでて島の良さに気づいた」
島で農業をするために仕事を辞め帰郷。

現在は縁(えにし)くん、佑(たすく)くん、なるちゃんの3人の子供と5人で暮らしている。

全員から感じるパワフルさと暖かさは、のびのびと自分らしく生活ができる島ならではの個性だろうか。

農作業だけではなく、観光日には喜界島を案内してくださったし、BBQの用意もしてくださった。島についてあらゆることをご存知でいらっしゃったので、話の種類も豊富で、どんどん新しい発見も増えていった。
(細かいことをいうと標準語で喋るのはすごく有り難かった。)

他にも「十兵衛」という居酒屋で、山羊肉の刺身とはじめとする名産品をたらふくご馳走してくださった。子供3人とも沢山遊んだ。
普通の日も時々様子を見にきては物資を調達してくださった。

今現在は、二人でたちあげた「SONTAR GARDEN」の活動として、農業と六次産業化商品づくりを営み、全国へ発信を続けている。

園田家の充実した日々はSNSからも伺える。
そのパワフルさを見習って頑張ろうと思う。


綾乃さんのインスタよりいただきました。園田さん一家。

島民の一人であるTくんも、私たちに大きな元気をくれた一人だ。

出会いは小野津海水浴場。休息日に海で遊んでいたところ、彼に出会った。
「飛び込み禁止」と書かれた高い防波堤から軽々飛び込むTくん。
「一緒に遊ぼうよ」と誘ってくる(あおってくる?)。

日に焼けて丸刈りでまだまだ幼い少年が、躊躇なく海に飛び込んでいく。
なんだか面白くなって、一緒に遊ぶことにした。

私たちのような見知らぬ人間に人なつっこく近づいてくる姿も、勝負に勝ったからと奢ってもらったジュースを美味しそうに飲む姿も、別れの間際に寂しげな表情を悟らせまいとする様子も、どれも可愛かった。

聞くところによると、9人23匹の大家族としてかつてテレビで特集が組まれたらしい。次の日はその番組の鑑賞会をした。

島民の数より多いとされる野良猫を保護するために奮闘する「農家の5男、わんぱく少年」ことTくんは、まさに先日みた人なつっこい少年そのものだった。


おんぶされちゃうTくん。

数え切れないほどの出会いをした。

園田さんの畑で一緒に作業をしたバイトの女性たち。

高校生時代に喜界島コースに参加し、個人的に島に戻ってきたという大学生の女の子。

ボランティア先として自分の農場を提供し、終わったら野菜や果物を支給してくださった農家の方々。

居酒屋みたいな店でフィリピン料理を振る舞いながら一緒にカラオケを楽しんだ方言コテコテな区長さん。

「ジャパンハート」という医療団体による離島への看護師派遣がきっかけで喜界島にやってきた出張ナースのお二人(弟さんに島を紹介したところ、彼も島にどはまりし、今はuru coffeeというお店でSUPを教えているらしい)。

どれも、このコースに参加して、この島に来なければ絶対に結ばれることのなかった縁なのだと思う。

皆から教わったこと、もらったものを思い出しながら、懸命に生きていこうと思う。「あの日から私はこんなに変わったんだ」と彼らに胸を張れる様な生き方をしたいと強く思う。


最終日のフェリー。「ありがとう」と何度も叫び、手を振り続けた。

次でそろそろ終わりにしようと思います。
(疲れてきたところだし…)
10日間で何をしたか、どんなものを食べたか、より実用的?なテーマで書こうかなと思っています、今度こそ。
お時間ある人はぜひお付き合いください。

それでは!