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コラム「境を越えた瞬間」2024年8月号-小林武さん‐

プロフィール

小林 武(こばやし・たけし)

1964年 新潟県生まれ
1985年 国立療養所箱根病院附属リハビリテーション学院理学療法学科卒業、理学療法士免許取得、東京慈恵会医科大学附属第三病院リハビリテーション科勤務
1992年 放送大学教養学部卒業
1999年 東北大学大学院医学系研究科博士後期課程修了、東北文化学園大学医療福祉学部勤務・・・現在に至る


「フィリピン沖」

十数年ぶりに従兄から電話をもらった。私の母のすぐ上の兄である伯父が亡くなって数年経ってからのことだ。年賀状のやりとりは続いていたが、声を聞くのは本当に久しぶりだった。
「うちの親父が受給しておった特別弔慰金のことなんやけど・・・」という切り出しで用件を告げられた。

私の母は9人兄弟の5番目で、存命している兄弟で最長齢である。
従兄の話しは、伯父が亡くなるまでその伯父が特別弔慰金を受け取っていたこと、その権利がスライドして私の母が受給対象者になること、そしてその手続きを忘れずするように・・・、ということだった。

母の兄弟の長男が太平洋戦争で戦死したことは、私も知っていた。しかし、国として弔慰の意を表すものとして戦没者の遺族に特別弔慰金を支給していることは知らなかった。
厚生労働省のHPで調べると、その当時に家計を一にしていた家族に支給される弔慰金で、戦没者と親等が近い順に受給できるというものだった。

その電話を受けてしばらくしてから区役所の担当部署に行き、母の代理人として「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」の手続きを始めた。
従兄から聞いてはいたが、申請手続きにはたくさんの書類とそれが受理されるまでに長い時間が必要だった。存命する親族の中で母が最年長であることを証明するための書類を揃えることに、殊に手が掛かった。
しばらくして、戦没者の死亡当時に生計を一にしていた家族全員の名が入った80年前の戸籍謄本が手元に届いた。その長男の欄には次のような一文が記されていた。

「昭和拾九年拾月弐拾五日午後四時比島方面二於テ戰死」

当時の役所の方によって筆書きされた達筆な漢字とカナ文字の公用文が、その一文の持つ意味の重さをより際立たせていた。

自分の目でその文を一文字ずつ確認しながら読み進める間、時間の進みがゆっくりになって、周りの景色が昭和19年(1944年)にタイムスリップしたような感覚になった。
「幼い頃に母から聞いて知っていた事実」と「今回、公的文書に記された記録を目の当たりにして再認識した事実」はその重さが大きく違った。
それまでは心の表面の何処かにピン留めされた記録だったが、その時から脳の一領域にしっかり刻み込んでおくべき記憶になった。

申請手続きが一通り済んでから半年くらい経って、新たな書類提出が必要であると連絡を受けた。
その書類の入手方法について調べていたとき、杉並区の成人式で区長が式辞を述べている動画に出会った。その動画を視聴して鳥肌が立った。動画であっても五感で感じるようなピンと張り詰めた空気の中で、静かにかつ時に熱く語りかける区長の言葉が、素直に成人達に染み込んでいくように感じた。こんな成人式もあるのか、こんな首長がいるのか、と思った。そして何よりも、区長が話した内容に胸が締め付けられる思いがした。
その話の中で、特攻隊員として出撃命令を受けた二十歳の若者が、そのことを両親に伝えるために書いた手紙が紹介されていた。

「お父様、お母様、ただいま出撃の命令が出ました。今から元気に行ってまいります。長い間、本当にお世話になりました。ありがとうございました。本当はもう一度お目にかかって、御礼を申し上げたかったけれども、そういう暇(いとま)がございません。心からお詫び申し上げます。
私のリュックサックには、お酒や缶詰が入っています。それらは、みんな、軍から支給されたものを、いつか家に帰ったときに、皆と一緒に楽しく食べようと思って、残しておいたものですが、いまはそのことが、できなくなりました。どうかこの缶詰とお酒は皆さんで分けて、食べてください。
自分は、今から行って参ります。長い間、ありがとうございました。」

この動画に見入っている最中「昭和拾九年拾月弐拾五日午後四時比島方面二於テ戰死」という伯父の戦死記録が頭の中を駆け巡った。
伯父は23歳の若さで軍艦と一緒にフィリピン沖の海の底に沈んだ。妹である私の母が13歳の時だった。訃報を知ったときの母の切ない気持ち、やるせない思い、悲しみには到底及ばないが、私の気持ちの中は、例えようのない悲しみとこれまで感じたことのない哀しみ、置き場のない無力感でいっぱいになった。

2024年3月、本学の学位記授与式の専攻長式辞で、私の母と戦死した伯父のこと、そしてこの手紙文を紹介した。
戦争というと、遠い昔のこと、遠く離れた地域で起こっていることと思いがちだが、そのことによって辛い思いをした人、している人が、実は私達の近くにいること、これから相対する患者さんも「そんな悲しみや苦しみを経験してきた人かもしれない」といつもそう思って、患者さんに寄り添い、接してもらいたいこと、そのようなことを卒業生と列席していただいた保護者の皆様に話した。

私のような者でも、還暦を迎えた今だったら、そんなことを話してもいいだろうと思ったのである。


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