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知識から思考へ

「考えれば解ること」

最近、様々な犯罪や、不祥事が目立つようになってきました。それも、優秀な方々の不祥事が増加してきているように思いませんか。医者、警察官、教師、企業のトップ、最近の松江市教育委員会の問題もそうですが、それらを見てみると、物事を分析と総合という形で思考され判断すれば予測のつくことばかりです。

これまで我が国が歩んできた教育は、主に「知識」優先の授業体系を築いてきました。「知識」を蓄えていくために重要であったのが「記憶力」です。しかし、この記憶力も学習においてその本来の力を発揮できる指導ではなく、記憶の一部分である「暗記」に傾斜していきました。記憶は、保持されている情報と、新たな情報とが重なったり、対比したりしながらより複雑に、そして広がりを見せ新たものに変化します。そして記銘、そして保持されていきます。ですから、新たな情報が入ってくると、どこからでもたぐり寄せ思い起こすことが可能です。それに対し暗記は、その形を変えることはなく記憶されていきます。

ただ、暗記学習が悪いという意味ではありません。暗記された内容をしっかり加工する学習が必要なのです。暗記をしてそれで終わりという学習が今までの主流でした。では、暗記を加工が意味するのものは何か、それが思考です。考えることなのです。つまり、記憶は次の学習である思考を重ねることで意味を成すものなのです。

知識だけでは物事を深く捉えることはできません。そこに思考が入らなければなりません。知識では白か黒、良いか悪いという判断でしかないと思います。しかし、そこに、「思考」と言うものが加わると、白という色は透明にもグレーにもと考えが及ぶ事があります。物事を考えるときは、知識だけでなく「本質」という核になるものが必要です。

また「はだしのゲン」の話になってしまいますが、知識と良識で判断した松江市教委は、問題の本質を視野に入れ考えることをしなかったのではないでしょうか。良書か悪書という認識では今後も同じ過ちを繰り返してしまうでしょう。私は、日本全国の教育委員会が知識偏重の体質を持っているのではないかと思っています。それより、我が国全体が、大人達が、考える前に「知識」という枠内で結論を出してしまっているように思えるのです。

多くの読者がいる「はだしのゲン」世界20カ国で翻訳されるほど認知されている本を、教育を守る立場の人たちが閉架措置をとった場合、どのような反応が予想されるか、それでも閉架措置をとるといった判断であれば問題は最小限で済んだかも知れません。ところが、閉架措置を見直すとなると、市教委では十分に話し合いが行われなかった事を意味しています。このような何ら思考と言う、人間にとって大切な考えることを拒否した行動が蔓延しています。いじめ、自殺、殺人、社会全体が知識に頼り、それも低次元の知識で判断し行動しているように思えます。

これからの教育は、難しい事ですが、間違いなく「思考力」重視に行くべきです。もう知識偏重の教育は終わりにしなければなりません。私はそう思っています。

2013/8/24


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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