見出し画像

ザ・授業

「教しえる側の姿勢」

近年、授業中の子ども達に緊張感がないことに違和感を感じています。また、良いか悪いかの判断が難しいのですが、子どもと先生の距離が縮まったように感じます。その距離とは、教しえる側の姿勢です。教育現場でも教師と生徒との間を、「友達のように」と表現し、これを当たり前のように受け入れています。それどころか、友達のように接する事を良い事であるかのように考える教師もいます。学校でも、塾でも、子ども達に指導する立場の人間は、どこか毅然とした態度が必要でしょう。話のわかる教師が一流の教師ではないのと同じです。子ども達は、指導をしてくれる先生に対し、敬意を持って接するべきなのですが、この感覚は古いと一蹴されてしまいます。

かつて、どの家庭も先生と名の付く人には最大限の敬意を払って臨んでいました。近年では保護者の学歴も高くなり、先生に対し、同等か、もしくはそれ以下として対応する方も珍しくはありません。家庭内でも、先生の悪口を子どもを前に平気で話してしまうこともけして珍しい事ではありません。勿論、非難されるべき指導者もいることは間違い在りません。先生としての立場は以前より悪くなっていることは明白でしょう。それが生徒指導に悪影響を及ぼしていることに気付いていないのかも知れません。

これからの我が国の教育を考えると、教師の威厳を取り戻す事なのかも知れません。友達関係でなくとも指導は出来ます。教師としての信用も得られます。では、何故、ここまで教師の存在感が薄くなって来たのでしょうか。それは、技術不足と理論的理解の不足が原因ではないかと思います。どれだけの教師が理論武装をしているか甚だ疑問です。ただ漢字を教える。計算を教える。解き方を教える。そして答合わせをする。もし、このような授業が行われているとしたら、その授業を受けている子ども達が可哀想です。ここ暫くの間、授業の形態は大きく変化していません。子ども達に、感じさせ、気付かせ、発見する喜びを与えていません。問題数の消化、ページの消化に精を出し、肝心な思考力をつけていません。

私達は、何故面倒くさいタイル指導をしているのでしょう。指を使えば速く答が出せます。計算問題を多く解けば計算は速くなります。

極論を言えば、ここに、思考力は要りません。機械的に覚えた計算の答を書くだけの、学習と言うよりは作業というものが待っているだけです。タイルという半具体物を使って、映像で、イメージで解くと、問題の本質が見えてきます。何故足し算なのか、何故引き算になるのか、良く言われる「学習のシミュレーション」が出来るのです。抽象的な式からは、その手前の考え方が見えてきません。例えば2+3という式になる前には「合併」「増加」「添加」という具体的な考え方があります。5-2には、「求残」「求差」「求補」「求大」「求小」などの考え方があります。理論とは、子ども達の思考力を高めるために必要な教師の学習です。

2012/10/19


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?