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体験の伴わない知識の末路(独り言)

「いらない知識と必要な知識」

このブログでも時々登場する日曜の午後のテレビ番組がある。若い女性に街角で指定された料理を作って貰うという、この時代を象徴する恐ろしい企画だ。今回は「レンコンのはさみ揚げ」、毎回、この番組のスタッフが凄い。今時の子だからと、想定されるあらゆる物を用意する。その想像力に脱帽してしまう。

彼女たちは、ファッションや流行には高い意識を見せるが、料理には意識は向かないようだ。今回、番組のスタッフが用意したものの中に、ハンバーガーのパンが用意されていた。「はさみ揚げ」の「はさむ」を想定しての事だろう。彼女たちは、その期待を裏切ることはなかった。レンコンを揚げ、トマトやチースと共に、レンコンのはさみハンバーガーを作ってくれた。一様に、どんな料理になろうとこれが「レンコンのはさみ揚げ」だと自身を持って主張する。

あなたたちの「レンコンのはさみ揚げ」と私の作った「レンコンのはさみ揚げ」は違うと主張する。だからこれが正しいと言う。しかし、周囲が食べてみて、これはおかしいと味も否定されると、こんどはキレてしまう。彼女たちの言動や行動は、一見正当性がありそうだがどこか違和感を感じてしまう。それは何故か。問題なのは、「レンコンのはさみ揚げ」を知らないことだ。世間一般が想像する料理とは明らかに違う。まさしく創作料理と言っていい。しかし、そのような説明はない。更に問題な点は、料理の基本を知らないことだ。たぶん経験も殆ど無に等しいだろう。あるのは、最低限の知識だけだ。料理名にあることばを自分なりに解釈し作り上げる。このままでは、いくらリクエストしてもまともな料理は作れないだろう。果たして、現在どれだけの人たちがまともな料理を作れるのだろうか。この番組の正答率は毎回1割を切っている。時にはこれは無理だろうという料理もでるが、一般的によく知られている料理がリクエストされる。どこかで一度は食べたことがあるような料理、しかし、意識して食べてはいない。このような状況は教育界でも起こっている。

この番組は、教育を語る上で最も適した例えだと思う。学習を進めていく上で、子ども達の知識には、必要な知識と不必要な知識の二つがある。情報化社会は、子ども達にも容赦なく情報の雨を降らせている。その雨をよけきれない子ども達は、当然びしょ濡れ状態で学習に参加してくる、情報の精査は大人達の役目だ。子ども達には精査されない情報だけではなく、経験や体験がない。すると、彼らは知っている限りの情報で学習という料理をしなければならなくなる。学習に必要な情報とは、生活経験・社会経験を通した具体的体験、これらに加え、いわゆる学習用語だ。

これらを学習の基礎として据えた子どもはとても強い。思わぬ力を発揮する。新たな発想や気付き、豊かな想像力はこれら基礎が元になっている。閃きなどはここから発生する。それ以外は単なる思いつきとなる。子ども達に必要な情報が伝わりにくくなっていることは、学力低下の大きな要因となっている。

正しい食材の知識や料理法の知識、そして何よりおいしい料理を食べたいという思いから料理は生まれる。学習も同じような事が言える。自分を飾る意識を表面だけでなく内面にも向けて欲しいと。

2013/9/9


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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