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概念とは何か:SDGsと「個」のアップデート(石川善樹)#6

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石川善樹|Yoshiki Ishikawa 予防医学研究者。1981年広島県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士号(医学)取得。公益財団法人Wellbeing for Planet Earth代表理事。「人がよく生きる(Good Life)とは何か」をテーマとして、企業や大学と学際的研究を行う。専門分野は予防医学、行動科学、計算創造学、概念工学など。著書に『フルライフ』『考え続ける力』『疲れない脳をつくる生活習慣』ほか多数。

「ダイバーシティ」の誕生

ここに一つのグラフがある。過去200年の間、英語の本の中である単語がどれほど登場したのか、その割合を示したものだ。

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グラフから明らかなように、「ダイバーシティ」は1980年代から徐々に割合が増えており、特に1990年代になると急速に拡大していることがみてとれる。

さて、そもそも「ダイバーシティ」という概念がうまれるには、「スタンダード(標準)」という概念の存在があることを忘れてはならない。友人から聞いた話だが、どうも「スタンダード」という概念は19世紀のロンドン万博にて誕生したようだ。それこそ「家族のスタンダード=夫婦+子ども二人」といった概念も、この時期を境に生まれているようである。

そして、「ダイバーシティ」という概念があるからこそ、私たちは最近、「あれ? この会議室にいるのはおじさんばかりじゃない?」という現実に気が付けるようになったのだ。あるいは、これだけ「ダイバーシティ」が広がると、逆にユニクロのような「スタンダード」が価値を生むという逆転現象のようなことまで起きている(この辺の議論は後述する)。

そもそも「概念」とは何か

ところで「概念」とはなんだろうか? 社会学者のタルコット・パーソンズは、「概念」について次のように説明している。

「概念とはサーチライトのようなもので、わたしたちが事実と呼ぶものは、概念によって切り取られた現実の一部なのです。サーチライトが変わることで、いままで見えなかった暗闇が輝き、あたらしい事実が見いだされるのです」

たとえば、私たち日本人は「わびさび」という概念をもっている。だから、古いお寺の庭にある苔の生えた石を見ると「わびさび」という感覚がうまれる。しかし、考えてみると当たり前だが、そのような概念を持たない人にとっては、それは単なる「石と苔」にしか映らないだろう。

とはいえ、私たちはこの「概念」に対して、あまりに無自覚である。実際、「わたしはどのような概念を通して世界を見ているのだろうか?」と考え込むような機会は、日常生活において皆無であろう。しかし、確実に私たちは「概念」を通して世界を見ているし、また「概念」が変われば世界の見え方も変わってくる。

ダイバーシティ時代の「個性」とは

……そんな話を周りにしまくっていたら、ファッション業界のとある重鎮の方から次のような問いを投げかけられた。

「石川さん、今の時代、“個性“という概念についてどうお考えですか?」

……むむむ。

まず大前提として、個性というのは「スタンダード」が強い時代に輝きやすい。というのも、時代の標準があるので、そこから離れることで簡単に「違い=個性」がつくれるのだ。しかし、今や時代は「ダイバーシティ」である。そういう時代に個性を考えるとは、必然的に次の問いと向き合わなければならない。

「人はみな違うという前提の中で、さらに違うとはどういうことか?」

もはや禅問答のような問いであるが、こうなってくると「違い≒個性」とすることが難しくなる。すると逆張りの発想になるが、「ダイバーシティ時代の個性≒スタンダードに寄せること」だとすら言えるかもしれない。その典型例がユニクロなのだと思うし、だからこそユニクロは自社のコンセプト(概念)を「Life Wear(あらゆる人の暮らしを、より豊かにすることを目指す、普通の服)」としているのだろう。まさか「普通」が価値を持つ時代が来るなんて、ファッション業界の人は思いもよらなかったに違いないし、逆にそこに気がついたユニクロの慧眼たるや。

「個性」はなぜ価値を持つようになったのか

……というディスカッションをその方としていたところ、ふいにあることに気が付いた。

「そもそも、個性という概念が価値を持つに至った背景は何か?」

あれやこれやと考えた結果、たどり着いた結論が「ルネッサンス」であった。すなわち、「個人には価値がある」という思想が誕生したのが、まさにルネッサンスだったのだろうと。

14世紀半ば、ヨーロッパでは「ペスト」が大流行し、それこそ全人口の1/4~1/3が失われた。唯一の拠り所だったはずの教会はまったく頼りにならず、その権威は地に落ちた。たとえば、ローマ教皇の中にはペストにまみれた街を捨て、逃げ出してしまうものまで。

しかし人々は、死の恐怖の中でも「いかに生きるのか」という問いを強く意識するようになり、結果として誕生したのがルネッサンスである。

さて、ルネッサンスとは何だったか? 専門家ではないので世界史の教科書レベルの理解で恐縮だが、一言でいうと次のようなものだろう。

「ルネッサンスとは、人間中心主義である」

ながらく人間を抑圧してきたローマ教会の束縛から解放され、生き生きとした人間像の模索を始め、「個人には価値がある」という思想の始原がルネッサンスにある。

「わたし」から「わたしたち」へ

……とここまでディスカッションした時、私たちは次の問いにぶつかった。

「そもそも、これまでの”個”という概念は限界にきているのではないか?」

つまり、限界というのはこういうことだ。

いうまでもなく、「個」は英語だと「individual」。もうこれ以上分割できない、キラキラと輝く首尾一貫した存在が「個」。しかし、平野啓一郎さんが『私とは何か:「個人」から「分人」へ』の中で主張したように、「私という存在は、時と場合に応じて変化する柔軟なものでいいんじゃないか?」という考え方はますます支持を集めているように思う。

さらに時代を俯瞰すれば、「個や人間」ではなく、「地球」を主語にした「サステイナビリティ」という概念がこれほど広まっているのは、ルネッサンス以来の「人間(個人)こそ価値がある」という発想にアップデートを迫られているように感じられる。それは一言でいうと、次の問いを考えることと同義だろう。

Q. いかにしてselfという概念を、「わたし」から「わたしたち」へと拡張できるか?
注:「わたし」は分割不可能な首尾一貫した個を指し、「わたしたち」は人間のみならず、かつて「星のかけら」だった全てのもの(有機物・無機物)を指す。

そしてまさにこの問いを追及しているのが、友人のドミニク・チェン(早稲田大学・准教授)である。ドミニクは最近、渡邊淳司さん(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)とともに『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために:その思想、実践、技術』という本を監修し、これまでの研究結果を踏まえ見事な議論を展開しているので是非読んでみてほしい(ちなみにこの本には、以下に登場する安田登さんや私も寄稿している)。

玄人の道と素人の道

個人的には、selfという概念の拡張には2つの道があると思っている。「玄人の道」と「素人の道」である。これは能楽師の安田登さんに教わったのだが、そもそも玄人と素人には次のような違いがあるのだという。

「古典芸能における玄人と素人は、『玄』と『素』の両方に『糸』が入っているように、もともとは 『玄』はさまざまな色を重ねて作る黒い糸、「素」は雑色を漂白して作る白い糸を意味する言葉でした。
そのように玄人とはさまざまな演目を稽古し、身につける人であり、対して素人は謡や舞の稽古を通して、自分の中のさまざまな雑物を排除して純粋無垢な芸を目指す人を言います。そういう意味では素人の方が悟りに近いとさえいえるかもしれません」
(出典:安田登『能:650年続いた仕掛けとは』

あるいは、別の言い方をすると次のようになる。

「玄人」の道:More is Betterの道
「素人」の道:Less is Moreの道

すなわち、玄人の道とは、「わたしたち」に関係するすべてのステークホルダーの想いをくみ取りながらselfを拡張する道になる。その一方、素人の道とは道元の「自分を習うとは、自分を忘るるなり」のように、自己中心性(self)から離れていく道になる。

どちらの道をいくにせよ、究極的には同じところに行きつくのではないかと妄想している。禅でいうところの「色即是空&空即是色」の境地だ。

SDGsと「個」の拡張

禅と言えば、京都学派である。私の弟分である野村将揮(元経産官僚。この春より京大・博士課程で哲学を学ぶ)によれば、禅を世界に広める上で、京都学派が果たした役割はとても大きいらしい。だとすると、その京都学派は本稿で考察してきた「概念」や「self」についていかなる展望をもっているのだろうか?

野村、曰く。

「人は生まれつき概念を持って生まれてくるわけではありません。犬を見た時に『あれが犬だよ』と周りから教わることで、『犬』という概念を獲得します。概念は、自己と外部世界の相互作用から内面化されるものにほかなりません。
しかしながら、ここで注意が必要です。というのも、たった今『自己と外部世界の……』と僕は言いましたが、そもそもこの考え方の根底には、主体と客体、つまり自己と外部世界を別のものであり、ゆえに分離して捉えようとする西洋的な『主客分離』の思想性があります。
私たちは日頃から当然のように『自分と他人』や『自分と地球』といったフレームに沿って物事を捉えていますが、人類の思想史から見れば、この『自分』つまり『self』を切り出すこと自体が一つの概念に過ぎないとも言えます。人類や地球を主語に置くSDGsやsustainabilityの議論は、この『self』を拡張する方向性を有しています。『いま』の『自分』ではなく、『未来』の『人類/生態系』と対比すれば明瞭でしょう。
京都学派を含む東洋哲学は、上記の『主客分離』とは対照的な『主客未分』、すなわち、自分と外部世界が、分断される以前のあり方をそのまま受容を志向するものなので、未来に向けた新たな思想的・理論的支柱を人類に提供できる可能性を有していると思っています」

ダイバーシティ・サステイナビリティ・拡張されたself

……さて、最後に話を整理しよう。

本稿では、私からみなさんへの提案として、「3つのキーワード」を仕込んだつもりだ。

「ダイバーシティ」
「サステイナビリティ」
「拡張されたself」

なぜ、この3つなのか?

実は明確な理由があるわけではないのだが(笑)、あくまで直観でしかないものの、どうも今の時代が求める概念があるとするなら、私はこれら3つではないかと考えている。とくにこれからの10年、もっとも注視していきたいのが「selfの拡張」である。

言うまでもなく、私は未熟そのものである。偉そうなことを言いながら、selfの拡張などぜんぜん出来ておらず、「自分の」家族や「自分の」仕事が大事だったりする。

しかし、改めて「自分とはいかなる概念か?」と考えてみると、やはり漢字はよくできていて、次のような意味を持つらしい。

「自分」= 独自の「自」+ 全体に対する部「分」

すなわち「自分」とは、独自に存在するものであると同時に、全体の部分としても存在するという、円融無碍なる概念なのだ。だとするとselfの拡張とは、「わたし」と「わたしたち」のアウフヘーベンだとも言えよう。

ちなみにここまでの話を友人の川上全龍さん(妙心寺春光院・副住職)にしたところ、次のようなコメントをもらった。

『世界中のトップエリートが集う禅の教室』という本を出させてもらっていますが、京都にあるわたしの寺には、本当に色んな方がいらっしゃいます。
その中で日々、『なぜ今、世界は禅に注目しているのか?』ということを考えるのですが、どうもキーワードは『self』にあるような気がしています。
というのも、わたしたち人間が抱く最大のバイアスが、『self(自我)』という概念だからです。当たり前ですが、selfという概念は人間が作り出したものであり、本来的には『空』なるものです。
しかし、ベーダの経典とか、仏教とかにあるように、肉体と外界(物質的環境と社会的環境)がぶつかり合うことによって、生まれる感情、身体感覚、思考と意識から『自分が存在している』という概念が生まれています。
西洋に目を向けても、スコットランドの哲学者デービッド・ヒュームが、デカルトの信仰者(自我は独立して存在するもの)たちに、『自我』を観察してみろって!ってよく言っていたそうです。結局そこで、観察できるのは肉体や身体感覚、感情や思考だけであり、『自我』なんてないでしょと」

ちなみに川上さんは、上記のような背景から「no self」というキーワードで、禅の哲学を国内外で広めるセッションやWebinarを(英語と日本語で)開催している。ぜひ興味がある方は参加してみてほしい。

ということで、もう一度、整理しよう。

「ダイバーシティ」
「サステイナビリティ」
「拡張されたself」

これら3大概念を手に入れた時、ついに人類は「Well-Being(よく居る/在る状態)」を体得し、あらたなる時代の幕が開かれることになろう。

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2030年以後:SDGs and beyondの「フルライフ」

いま「あらたなる時代」と言ったが、それを構想する上では「いまどういう時代か」を考えねばなるまい。もちろん、どのように捉えてもいいのだが、国際社会はいま、「Leave no one behind(誰一人取り残さない)」という合言葉で結束をはかろうとしている。

いうまでもなく、この言葉はSDGsを支える概念である。しかし、SDGsはいったん2030年で終わりを迎える。ゆえに今、未来を見据えて私たちが考えなければならないのが、SDGs and beyondである(ちなみにこの言葉は、2025年に行われる大阪・関西万博の合言葉でもある)。

そして、SDGs and beyondの中心に来る概念は「フルライフ(充実した人生)」になるのではないか。私はそう考えている。

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では、フルライフ(充実した人生)とは何か?

完全に宣伝になるが、私はまさに最近、『フルライフ』という本を出版した。この本は「時間の使い方に戦略をもつことで、フルライフを実現する」をコンセプトにしており、一言でいうと「フルライフ=Well-BeingとWell-Doingの調和である」という主張を行っている。

そして、この本の中では書ききれなかったのだが、本稿で考察してきたキーワードを用いると、「フルライフ」という概念は、次のような構造によって支えられていると考えている。

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ちょっと複雑な図で、見方が分かりづらいが、基本的にはシンプルなことをいっており、次のような対応関係がある。

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すなわち、一見共存しえないような、これら概念を止揚し、統合したものが「フルライフ」なのである。

自分とは何か

そして、この対応関係の中で、やはり一番わかりづらいのが、「Augmented Selfとは何か?」というものであろう。日本語でいうと、「自分とは何か?」という問いになろう。

この問いに対して、私は以下のようなイメージを持っている。

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まず、人はどうしても、物質化された自分のことを「わたし」と思いがちである。しかし、たとえば「湖とは何か?」という問いを考えれば少し明らかになるが、はたして「物理的にここからここまでの範囲が湖である」と言ってよいのか、あるいは「湖たらしめているのは、流れ込み、流れ出る水である」という考え方もできる。

つまり、「自分とは何か」という問いに対しては、人間を情報処理システムと捉えた時、「流れ混み、流れ出る情報の流れそのもの」が実は「わたし」であるという考え方もできる。別の言葉で言えば、全体に流れる情報の中で、部分的な流れの一つが「わたし」を通過するというだろう。

このように、独自の箱としての「わたし」と、大きな流れの部分としての「わたし」。これを足し合わせると、これえまでの「individual」とはことなる「Augmented Self」という概念になりはしないか。かなり抽象的だが、そのようなことを考えている。

……まだまだ考察したいことはあるのだが、かなり長くなってしまったので、いったんここで本稿を閉めたいと思う。「概念とは何か?」というコンセプトで、寄り道だらけの考察を行ってきた。何か読者のみなさんにとって参考になるものがあれば嬉しい。

【NewsPicks Publishing Newsletter vol.6(2020.4.24配信)より再掲】

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