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他者評価をデザインしよう

普通に生活をしている限り、他人から様々な評価をされたり、レッテルを貼られたりするものです。

望むと望まないとに関わらず、それはもう避けられない事実なわけですが、世の自己啓発本を見ていると「他人の目を気にするな!」というメッセージが過剰に正当化されているような気がします。

確かに他人の目を気にせずに生きれるならそれに越したことはないし、他人軸ではなく自分軸で生きられたら最高です。

ただ、現実問題として、他人の目を一切気にすることなく、自分らしさという漠然とした概念を頼りにブレずに生きていくって相当難しくないでしょうか?

他人からつけられたレッテルってかなり自分の思考に影響を及ぼすものです。

例えば、学生時代にモテる人気者のポジションを確立した人は何もない限りモテ続けるでしょうし、地味なやつというレッテルを貼られたら、たとえ本人が特段地味というわけでなくとも、大人しくて目立たない性格になっていくというケースはかなり見受けられます。

ちなみに僕の場合は高校時代「勉強できないやつ」という目でクラスメイトからも先生からも見られるようになった結果、見事に勉強を全くやらなくなってしまいました。

中学生までは優等生キャラだったにも関わらずです。

その原因を周囲の環境に押し付けるのもどうかと思いますが、事実として「あいつは勉強できないから」という周囲の期待に「応える」という表現はどうかと思いますが、ただ「勉強できないキャラ」として定着しちゃった方が何かとコミュニケーションも円滑にいくようになってしまったんですね。

そんな僕が勉強を本気でやれるようになったのは、高校を卒業して浪人生活が始まってから、つまり環境がガラッと変わってからのことでした。

同様に会社の中で「あいつは仕事ができない」というレッテルを貼られてしまうと、仮に仕事ができるやつと同じパフォーマンスができたとしても、正当に評価されなかったり、あるいはそもそも良いパフォーマンスを発揮すらできなくなりがちです。

まるでスベりキャラとして親しまれているお笑い芸人が、大喜利で面白い回答を出せたとしても、イマイチ受けないのと同じような感じです。

その逆で「お笑いのセンスがある」という認知を取れている人の場合は、割と何を言ってもウケることってテレビを見ていてもかなりあるじゃないですか。

人間は集団の生き物と言われていることから考えても、他者からの視線を一切無視して生きていくのは不可能だと言わざるを得ないし、それを一切気にすることなく「自分らしく生きていこう」とするのはかなり難しいんですよね。

それなら、もういっそのこと「他者からの評価をデザインする」という感覚で、自分の理想のイメージを作っていく、自分にとって理想的な認知を獲得していくという意識で動いた方が、かなり自分らしく生きやすくなるんじゃないかと思うんです。

例えば、仕事ができるようになりたければ「仕事ができるやつ」という認知を取ることが大事だし、自由な人になりたければ「自由に生きてるやつ」という目で見られるようにすること。

結局のところ、人は集団組織の中で生きているわけで、仮に帰属意識の高いコミュニティに属している感覚がなかったとしても、何かしら他者からの視線を感じながら日々生活をしているわけです。

そして無意識のうちに他者からの評価を自分のアイデンティティに変換しながら生きているのです。

というわけで「こういう自分になりたい」という像があるなら、まずはそのイメージを持たれるようにすることが一番です。

…と言うと「イメージだけだったら意味がないんじゃないか」と思われるかもしれません。

ただ「あいつは努力家だ」と思われるためには、真剣に努力を積み重ねていないとそうはならないですし、その認知を獲得するためだけの「努力してるフリ」しかできていなかったらすぐにバレます。

そうなると結局は「努力できない人」とか「自分を大きく見せようとしてる人」みたいな感じになってしまうので、結局は努力家としての認知を取りたければ、ちゃんと努力をしてる姿を見せるしかないんですよね。

ということで、自分らしく生きるためのステップとして「どういうイメージを持たれたいか」という視点も大事にしていかれるといいんじゃないかと思います。

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