死の存在を認める
最近の気づきメモ
日々の人間関係や
息子の体調との向き合い
それから
最近息子が車に轢かれそうになったこと
その一瞬
車を間に挟んで
私の方に向かってくる、とわかった
右からは車が来ていた
それほどスピード出しているわけでもないし
息子の周りにはたくさんの大人が居て
みんなで子供たちを見守っていたけれど
たった一瞬の数メートルでも飛び出したら命を落とす可能性はある
結果車は停まってくれて
息子はどうだったか細かく思い出せないけど大丈夫だったけど
そのときは大したことが無かったけど
あとからじわじわと緊張が解けてきて涙が出てきた
道を挟んでこちらに飛び出そうとする息子
右からは車
一瞬の判断で私は息子に向かって走っていた
その瞬間自分の命はどうでも良くなって
自分が車にぶつかることなんて少しも気にしていなくて、
間に合うならきっと息子を抱えただろうし
それも間に合わないなら突き飛ばそうとしていたと後から考えるとわかる
その一瞬で、思考も挟まず身体が動くというのはこう言うことなんだと体感した
出産の時の感覚と似ていた
その瞬間、無事に産めたら自分の命は二の次でいいと思ったことを思い出す
息子の体調不良となると
自分のこと以上に苦しい
その母親という責任の重さに押しつぶされ
時々投げ出したくなる
でも、改めて自分の命を投げ出してまで守ろうとするほど大事にしている命なのだと思った
それほど大きなものなのだから、
時々投げ出したくなるほどのものがあるということ、それは当たり前なんだ
しんどいけど、それが同時にそのしんどさこそが幸せでもあるということなんだ
こどもにかかわらず、
大きな愛を求めるけれど
それは無条件ではあるけれど
【大切な人が存在する】
【自分にとって大切な人を生み出す】ということは
同時にその人とのどう言う形になるかはわからないが、【別れ】というものも
同時に、並行して存在するということ
その同時に存在する幸福と悲しみを同時に受け入れること
それくらいの覚悟が必要なことなんだ
子どもを持つ覚悟というのは
自分にとって大切な存在になることが大前提としてわかってしまったいるからこそ
この世の最大の陰陽、生死、喜びと悲しみを同時に受け入れるという覚悟なんだ
あらゆることにフラットで在れるように意識しているけれど
息子に対してはなかなか難しかった
大事な人、身近な人であるほど難しい
例えばこどもの体調不良や苦しみは
母親にとって自分のこと以上に苦しみとなる
だからすぐに解決したくなる、
どうにかしたくなる
それはもちろん愛情もあるけれど
それと同時に自分が不安だから、
自分が苦しいから、という自分の問題として早く解決したいと言う思いも無意識のうちに乗ってしまって重たくなっていく
もちろん心配するなと言っても無理な話だけどここを少し緩め、受け入れていくこと
"絶対に"病気になりたくない
絶対に、健康でありたい
絶対に、死にたくない
という思いは生存本能として仕方ないと言うことを理解しつつも、
今に集中できなくなるような余計な執着は緩めて行った方が生きやすい
産まれるということはいつか死ぬということがセットであるということ
喜びと悲しみは常に同時に存在していて、
どちらにフォーカスを当てるかというだけのこと
そしたら足元すくわれず
今大事なことや集中すべきこと
今生きていると言うことの尊さが鮮明になってくる。
日々の人間関係や、
息子の一件や、体調不良などを通して
感じたこと。
今息子が目の前で元気で生きていると言うことが全て。
過去や未来に意識を囚われすぎて
大事なものを直視することを忘れないようにしたい。
教えてくれてありがとう。
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