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【第4回】1年間バングラデシュへ、正直苦しいことばかりだった

 ここまで3回お読みいただいた方、本当にありがとうございます。今回初めてお読みになられる方は、もしご関心あればこれまでの回もぜひご覧ください。

 今回、全7回(くらい)の連続企画の折り返しとなる第4回は、大学を休学してバングラデシュでの1年間に挑戦するお話です。大学2年生の夏に偶然ロヒンギャキャンプに居合わせたことで衝動的に始めた活動をきっかけに、もっと現地のことを知りたいと思うようになりました。今回は、どこに何をしに行こうと考えていた私に、大きな転機が起こるところから始まります。

決めた理由は、「こんな大人と働いてみたい」だった

 大学2年生の後期が始まり、再び授業の毎日となりました。バングラデシュや活動は継続しながらも、やはり多くの時間は大学で過ごしていることもあり、再び大学生モードに馴染んでいくような日々を過ごしていました。そんなタイミングで、地元であるイベントが開催されるという話を聞きました。

 それは、バングラデシュの現地でずっと活動している日本人が地元にやってきて講演会を行うというものでした。たしか授業かバイトがあった日だったので正直迷った記憶があるのですが、でもバングラデシュのあの記憶に少しでも近いものを味わいたくて、いくことにしました。最初は、予定と天秤にかけて迷うくらいのなんとなくな感じで行ったのが率直な気持ちでした。

 講演者は現地でストリートチルドレンのレスキューや社会復帰支援のNGO活動をしているエクマットラの渡辺大樹さんでした。当時、エクマットラが作成した映画「アリ地獄のような街」の公開に合わせ、全国行脚をしていた中での機会でした。この時は、その後人生に大きな影響を与える出会いになるとは微塵も思っていませんでした。

 講演が始まり大樹さんが話し始めると、エネルギーを撒き散らす(良い意味で)姿に驚きとワクワクで圧倒されました。こんなに面白く日々を過ごしている大人がいるんだなという気持ちでした。一体普段何を見て、何を考えて過ごしているんだろうという興味深さに包まれました。その時は確か名刺交換をして少し言葉を交わしたくらいだったのですが、僕の中では非常に印象深い出会いとなりました。

その後1年間を共に過ごし、大きな学びをたくさんいただいた大樹さん。せっかくインド国境に来たのでインターンの先輩と共に記念写真。

たったひとつのツイートでバングラデシュ行きを決めた

 この講演会が終わり、かすかな興奮を残しながらも、また授業やバイトの日々へと戻っていく私。バングラデシュで長期に住んで活動してみたいという気持ちも、時間が経つほどに少しずつぼやけていきました。

 そんなある日、大学の昼休みになんとなくTwitterを見ていました。すると、エクマットラのツイートが流れてきました。ああ、あの方のところだなあというくらいの認識でなんとなくツイートを見てみると、一気にドキッと血圧が上がりました。

「現地インターン募集」

 あれ、これじゃないか。わからないけど、これでバングラに行けるんじゃないか。そう思いました。

 そのまま午後の授業の教室に走って移動して、すぐにパソコンを開いてインターン希望の申請をしました。1月の教室で、ひとりすごい興奮してほかほかしていたと思います。湯気が出ていたかもしれません。

 そこからはあれよあれよで書類審査や面接を行い、バングラデシュ行きが一気に決まりました。インターンが決まったのは2月、渡航は3月末。一気に生活や手続きを行い、いつの間にか渡航の日が迫っていました。2度目のバングラデシュで1年間を過ごすことになったのですが、不安よりも変化の機会があることにワクワクしていました。

 3月末、いよいよバングラデシュへ。フライトは大雨で大幅に遅れながらも、なんとかダッカへ。バングラデシュの3月末は夏に向かって一気に気温が上がっていく時期。とにかく刺すような日差しとへばりつく洋服が不快だなと思いながら宿に向かいました。そうして、1年間のバングラデシュ生活が始まっていきました。

バングラデシュでの一コマ。いろんなことを教えてくれた。

正直、苦しいことばかりだった

 1年間のバングラデシュ生活をこの記事だけで書き切ることはできないのでほとんどを割愛することになるのですが、今回は特に印象に残った気持ち、気づきや学びを書きたいと思います。(バングラデシュの1年間のまとめは帰国直後に別記事に残しているので、ご関心あればぜひお読みください

 まず、1年間の多くの時間は苦しいと感じることが多かったなということです。でも当時はそれを苦しいと言うのは弱さであり、何より自分の意志で来ている以上苦しいなんて言ってはいけないと思う気持ちがありました。それがより自分を苦しめていたかもしれません。内容は大小さまざまなものがありました。せっかく機会をもらった仕事がうまくできなかったり、何度も体調を崩したり、生活習慣が異なる中でどうしても馴染んだ生活に戻りたくなったり、いろいろでした。

オフィスでがんばってる感を出してる一コマ。NGOの感覚やスタッフとの関係は、この期間に経験したイメージが強い。


 その中でも特に、自分自身にがっかりすることもたくさんありました。自分は何を考えていて、どう行動していて、何をしたいのか。それを言語化できず(そもそも考えられてなかったのかもしれません)、ある程度言葉にできても怖くて伝えられず、というような自分にヤキモキした日々でした。一方でこれは今でも自分が課題だなと思うことのひとつであり、バングラデシュの日々で若干は変わったものの、根本的にはまだこの性格を持っているなと思います。

 しかし一方で、大きな学びや気づきもありました。僕は意外と暑い、汚いなどにはそんなに気にならず生活できると知ったこと。ベンガル語がちょっとだけできるようになったこと。栄養失調を繰り返しながら、少しずつ最低限の料理ができるようになったこと。そして、バングラデシュで出会った人たちとの日々を通して、バングラデシュにまた来ようと思えるようになったことです。一方でこれはある大きな反省の裏返しとしての感情でもあります。

 渡航からしばらく経って、本当に失礼だったなと反省したのですが、渡航当初の僕はバングラデシュをひとつのフィールドとしてみていた節がありました。当時、将来は国連職員になりたいと思っていました。だから、バングラデシュにずっと関わりつづけることはないだろうと思っていました。しかし、日々助けてくれる仲間や人生をかけてバングラデシュ社会に挑んでいる人々、毎日声をかけてくれるエクマットラの子どもたちや仲間と過ごしているうちに、なんて彼らに対して失礼な態度であったことかを認識しました。

 そこからベンガル語にも本気で取り組むようになり、バングラデシュの文化、社会、人をもっと知りたいという気持ちで日々を過ごすようになりました。でも実際、そういう気持ちになれたのは最後の数ヶ月ほど。だから、それまでの多くの時間は苦しい記憶になっているのかもしれません。最後は、バングラデシュにこのまま住むのもいいなと思いながらも、大学はさすがに卒業しようという気持ちで帰国しました。

帰国直前の一コマ。少数民族ジュマの友人(中央2人)やインターン同期(左)と心ゆくまで話して心地よかった。

すぐに日本に馴染み、遠ざかるあの日の感覚

 ちょうど1年ほどがたった3月に日本に帰国しました。すると、私は急速に日本の馴染んだ生活へと戻っていきました。それと同時に、バングラデシュで感じていた"感覚"を失っていきました。

 この"感覚"を言葉にすることはとても難しいのですが、近い言葉で言うならば「人生に対する余裕」や「人生に対する解放感」が近いかもしれません。バングラデシュで生活しているときは、このままこの地で就職や生業を興して生活してもいいなと思っていました。または第三国でキャリアを積むのも選択肢に考えていました。他には、例えば人間関係に対する距離感だったり、困っても助けてもらいながら、時には助けながらなんとか生活ができるという安心感であったり、明日は明日の風が吹くという割り切りみたいなものがありました。未来に対する不安は、正直全くありませんでした。それは、私の言葉で言えば余裕が近いと思います。これは、正直私にとって心地の良いものでした。

 しかし、この感覚も急速に思い出せなくなっていきました。もともと規律に準ずる性格な私は、すぐにまた未来が不安になり、不安が常につきまとうようになり、渡航前よりも悪化して体にも影響が出たほどでした。これほどの変化を感じました。

 これが何なのか原因ははっきりと今もわからないのですが、僕の感覚としては「空間が持つ力」というようなイメージを持っています。その地の気温、湿度、人、環境、関係性、あらゆるものが作用して、自分の生き方や感覚そのものも大きく変わるものなのだと痛感した体験でした。

 一体何の話をしているのかわからなくなってきましたが、1年間のバングラデシュ生活を通して、さまざまな刺激に触れ、悩み苦しみ、希望を見つけて過ごしてきました。

帰国後、思ってもみなかった衝撃

 帰国から約1ヶ月が経ち、私は1年遅れの大学3年生として再び大学に通い始めました。当時はバングラデシュの余韻と、今後どうしていこうかという気持ちが入り混じりながら過ごしていました。一方で、学びたいことは非常に広がっており、残り2年間で学びきれるのかみたいな焦りも若干感じていました。

学びたいこともいっぱい、考えたいこともいっぱい。大学の芝生の上でぼーっと考えている日々は、今思えば豊かだったなと思います。

 そんなある日、確か5月だったと思います。下澤先生の研究室で話をしていたとき、思わぬお話をいただきました。もし関心があれば、先生が代表をしているNGO「ジュマ・ネット」の活動に挑戦してみないか、という話でした。

 率直な感想は、それはそれは嬉しかったです。大学1年生で先生に憧れて門を叩き、追いつたくて活動をしてきた私にとっては、願ってもない話でした。ジュマ・ネットの活動に挑戦する権利を与えてくれたということが嬉しくてたまりませんでした。

 しかしその一方で、現実的な面から見れば人生の大きな分岐点となる選択でもあると思いました。当時は、赤十字国際委員会の紛争地での仕事に関心が強く、国際的なNGOでスペシャリストになりたいという道を思い描いていました。それに一応、大卒の新卒カードをどう切るかというのは、1年先に就活をしている同期の友達たちをみていると考えざるを得ないことでもありました。でも、ジュマ・ネットには特別な憧れもあり、この話はすごく貴重な機会であるという両者の気持ちで揺らぎはじめることとなりました。

進路に迷いながらも、バングラデシュは訪れ続けた。コロナが流行する直前の2020年2月末にロヒンギャ難民キャンプにて。

 そして、今思えばなんでこんなにうじうじしていたのだろうとは思うのですが、その後この決断に1年半をつぎこむことになります。先生はよくこんなにも待ってくださったと思いますし、早く決断して早く始めていたらもっと今は違うかもしれないと思うこともしばしばあります。でも当時の僕はどうしても決めきれず、その時間を必要としたのでした。

次回予告:迷いに迷った1年半、活動を志すまで



 こうして、私の大学3年生はさまざまな思いが交錯する時間となっていきます。迷い、そして答えを求めて哲学書に手を出し、人生を考える迷路に入っていきました。正直考えすぎて、夜中に気持ち悪くなって戻したこともありました。
 今思えば、何を迷っていたのかという感じなのですが、当時の僕はやっぱり迷っていました。次回は、そんな中での気づきや決断に至った気持ちを言葉にしてみたいと思います。

 次回はうじうじしている時期の話なので、ダイナミックさに欠けるスタックな感じの回になるかとは思うのですが、残りももう3回となりますので、ぜひお付き合いくだされば嬉しいです。サムネの変な感じのデザインについてもその理由を書こうと思います。

今回もお読みいただきありがとうございました。

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