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上野駅の父

上野駅に来ると父を思い出す
上京するときは決まって上野
馴染みの店でもあったのだろうか
東京駅を使うことは少なかったようだ

ある時、上野駅で父と母と待ち合わせたことがある
明治記念館で父が表彰されるということで
当日その話を聞いた私は
無理を言って午後休を取らせてもらい
明治記念館に向かった

歳を取り
痩せて坊主頭の父は
名前を呼ばれると立ち上がり
しばらくしたら座った

式典が終わり
表彰状と記念品をもらったらしい父と
母と共に上野駅に向かった

上野駅改札近くのチェーン店のカフェで
コーヒーを飲みながら世間話をし

ここでも父はろくに言葉を発さず
私と母がしゃべっていたが

父が一言
「おまえ、それじゃ結婚したらどうするんだ」

ヌメ革の財布を購入するときに
名入れをしてもらったという私の話に
父が急に一言被せてきたのだ。

それは
ユーモアを含んだジョークのつもりだったのかと今では思う。

私はちょっとたじろぎながら
そんなの、苗字が変わったって関係ないでしょ
なんて、よくわかんないことを言い
父はまた黙った。

私の結婚を心配しているんだろうか。
それは
本当に面白いジョークだ。


父は

なにかと私に一言
さらっと流れるように
実の所杭を打つように発する。

中学生の私がレーサーになりたいと言った時
しばらく父はなにも言わなかった。

ある日父が運転する車でピアノ教室に向かい
その車を降りる直前に
父が一言

「お父さんは競争する仕事はあまり勧めないけども、あんたがやりたいなら止めはしない」

その時私がなんと答えたのか
記憶がない。

時は進み私は20代後半
父が末期癌になり
月に2度3度、実家に帰省する様になった。
父との時間を少しでも増やそうと思ったからだと思う。

そうして帰省しても
父は相変わらずろくに喋らない。

だけどその時期に父が言った言葉を妙に覚えている。

何かのきっかけで父が言った一言
「あんたがいちばん母親に似ている」

脈絡に記憶がない一言はまだある
「あんたのことは心配してない」

なんの話をしてたのか
父がなにを思って発した一言なのか
覚えていないのがもどかしい。
思い出したい、知りたい。

知りたい。

父が末期癌になってから
はやく紹介せねばと
現夫である彼をスケジュールに無理をさせて
実家まで来てもらった

それから
確か
一ヶ月もしないうちに父は緊急入院し
2週間ほどして他界した。

亡くなる前に彼を紹介できて良かった。
結婚を心配していたんだろうから。


末期癌と分かったのが12月。
他界したのが翌年の6月。

その間に東日本大震災があった。
その時父は
末期癌の体で車を運転し
東北の、仕事の関係の知人へ
寄付や食料などを運んだ。
末期癌の身体でだ。
それが確か5月。

父は亡くなる2週間前から話せなくなり
トイレに行けなくなり
食べられなくなり
と、だんだん体の機能を失っていった。
それを見守るのは
辛かった。
辛いと言ってはいけないのだろうと
内側に押し込めながら
母と妹と毎日父を眺め
床ずれを直し
時に苦しむ父を見守った。
父は亡くなる直前
右手を上げた。
じゃぁまたな
そんな感じだった。


今でも思うのは

私は多分
もっと父と語りたかったのだ。
言葉を交わしたかった。
本とレコードが好きで
哲学が好きで
万年筆を使い(母に言わせれば格好つけてるだけ)
酒もタバコも好きで
土日も仕事ばかり

小さな頃から
目にみえるような可愛がり方をされた記憶はないけれど
たしかに父は私の生活にいたのだった。

父の一言の群集が私を支えているのは確かだ。
一言一言の言葉たちを
どのタイミングで引っ張りだして使うのかはわからないけれど
目に見えないところで私の土台になっている実感がある。

それは
父が私を信用していた
という大きな抱擁だったのかもしれない。

父は
確かに私を育ててくれた父である。


上野駅に行くと
父がいるような気配がする。
思い出は時間と場所に封じ込められることもあるようだ。
その気配はきっと
消えない。

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