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短編小説『星を知る人』

大丈夫、他人に救いを求めても、何の罪もありません。身内だからって親に義理を貫く必要もない。自分にとって大事な物は、自分で決めていいんです。


 数ヶ月前から噂されていた、此処〈東城百貨店〉の閉店・取り壊しがとうとう1年後に決まったそうだ。年末で全テナントが閉店、着工は来春、らしい。
 営業部の社員と付き合っている派遣社員の受付嬢が、誰にも言うなよって言われてるんだけどー、といつもの軽い調子を百貨店の共用ロッカールームで曝け出し、ペラペラと誰へ向けてということもなく喋り出した。
「えー、じゃあ、私たちどうなるのぉー?」
 隣のロッカーを開けたやはり受付嬢の子が即座に反応する。
「んー契約打ち切り?あーでも、跡地に建つビルにもたくさんお店が入るらしいしー、ウチら優先して再契約してもらえるかも?」
「えーそれめっちゃラッキーじゃーん!」
 類は友を呼ぶ、とは良く言い得たものである。笹岡琴子は、背後で噂話に夢中な彼女たちの語尾の伸ばし棒の長さにいちいち心でツッコミを入れながら、自分の身だしなみを整える事から目を背けなかった。すると、噂話を持ち出した方の女が不意にこちらに話しかけてきた。その視線は、まだ首から下げたままの琴子のIDカードをなぞっている。
「あのー、上のプラネタリウムの方でしたよねー?」
「ええ…そう、ですけど」
「あそこもぜーんぶ壊しちゃうらしいですよー?大丈夫ですかー?」
「何が?」
「次のお仕事ですよー。経験値としてはあんまりですよね、プラネタリウムって」
 だ・か・ら・な・に。
 琴子は思わず口から溢れてしまいそうになった5文字をまばたきで宙に解き放った。ちょっと言い返そうとして身構えた時にはもう、彼女はこちらに背を向け鼻歌を歌い初めていた。

 百貨店が集客のために設置する娯楽施設といえば屋上遊園地が主流だった50年程前、東城百貨店が誘致したのは本格的なプラネタリウムだった。物珍しさが功を奏し、人気を博したのもひと昔前の話。どちらかというとファミリー層向けのシンプルな施設だった東城のプラネタリウムは、後から出来た大人向けの高級感あふれる同業施設に遅れを取り始めた。
 故に、徐々に放映回数も減らさざるを得ない状況だったのを、他施設にも普段から趣味で足を運んでいる琴子はなんとなく察していた。だからあの噂話の1週間後に全従業員が集められ、施設支配人があらためてプラネタリウムの廃業を宣言した時にも妙に落ち着いてしまい、同僚からいぶかしがられたのも当然だった。
「笹岡さん、全然驚かないのね?わたし、もうショックで倒れそう。建て替えの話はほら、噂で聞いてたけど。まさか廃業だなんて聞いてないわよ……てっきりもっとオシャレな感じにリニューアルするのかと思ってたから」
 琴子の2年先輩になる館内アナウンス担当の白鳥しらとりが、華奢な腕に小さな握り拳を作って憤慨している。琴子は慌ててその場を取り繕おうと取り繕った。
「え……いえ、あの、驚いてますよ。私も」
「うそぉ。あ、もしかしてその余裕、もう次の職場見つけてるとかぁ?」
「そんなこと!」
「あーあ、折角正社員で5年もやってきたのに、こんな事ならさっさと結婚しちゃえば良かったなぁ」
 白鳥はゆるいウェーブのミディアムボブを揺らし踵を返すと、乾いたヒールの音を立ててロッカールームへと消えていった。

 私だって、十分ショックだ。
 3年前、この都会のど真ん中にいながらにしてやっとのことで見つけた〈星〉にまつわる仕事。例えそれが上映には直接携われないフロアスタッフだったとしても、それなりに充実している、と自分に言い聞かせて来れたのに。
「あ、笹岡さん。ちょっと」
 呼び止められて振り返ると、支配人の井出が手招きをしている。開館時の立ち上げに携わった先代が引退した後を引き継いだこの雇われ支配人は、母体企業である百貨店側にうだつの上がらない典型的な中間管理職である。
「あのさぁ君、年明けからはウチの系列店で受付嬢やらない?」
「は?」一瞬目眩がした。
「ああいや、正確には今、百貨店ここの受付を斡旋してる派遣会社が君に登録を勧めてきたんだよ。ほら君、こんな所に置いておくのがもったいないくらい見た目も……ねぇ」
 私は言葉だけは丁重に選びつつ、下から舐めるような井出の視線と目論見を豪快に蹴散らしてその場を後にした。

 着替えを済ませた私は通用口から吐き出されるように夜の帳が降りた街に出る。どうもここは息苦しくて敵わない。夢と希望だけを握りしめて実家を出たあの時、やっぱり私は今感じているような閉塞感から逃げようともがいていた。結局のところ…状況は何も変わっていない。

 同じ顔をした街灯だけが行儀良く並ぶ静かな裏通りから最寄りの地下鉄駅に向かうには、色とりどりに煌々と照らされた百貨店の正面玄関前を通らなくてはならない。ひと度メインストリートに足を踏み出せば、休みなく行き交う人の流れの速さにまた気が滅入る。つくづく、生まれ持った田舎者の性分が恨めしい。

 百貨店のショーウィンドウは、来たる真夏の季節に向けた演出が施されている。
 春夏秋冬に加え、バレンタイン、ハロウィン、クリスマス…と、イベント好きの日本人は暇さえあれば何かにかこつけて飾り立てたがる。そんなことしなくても夜空さえ見上げれば、今がどんな季節で、何を大事に生きてゆけば良いのか、簡単にわかるというのに。

 賑やかな雰囲気が途切れる敷地の外れに、小さな掲示板が現れる。長い間プラネタリウムの営業告知をする為に使っていて、飾り鍵穴の付いたガラス戸がいかにも年代物という様子だ。
 その掲示板の前に、ひとりの男が立っていた。
 今日は月曜日。1週間の中でも1番プラネタリウムの閉館時間が早い日で、特に今週は百貨店のセールとセールの狭間の期間ということもあって更に上映回数が減らされていた。
 あの人。いつも来る人だ。
 琴子はその後ろ姿を良く知っている。
 10回分の値段で12回鑑賞できる回数券を利用して、いつもその日の最終上映に合わせて姿を見せる常連客だ。少し猫背で、でも上背はあるので頼りなさはない。年齢は、自分よりもひと回り程上というところだろう。たまに上映中に眠ってしまうので、席まで行って起こしてやることもあった。
 そうか、今日は間に合わなかったのか。上映回数が減らされたのは自分のせいではないが、なんだか申し訳なくなってしまった琴子はその背中に思わず声を掛けた。
「あの、今日はもう終わっちゃったんです」
「えっ、あっ、うっ」当然ながら男は酷く慌てている。
「ああ、突然すみません。私、プラネタリウムのスタッフです。今日は特に回数を減らされてて。ごめんなさい」
 男はすぐに合点がいったのか、ぺこりと綺麗なおじぎだけを返し、そそくさと雑踏の中に消えていってしまった。
 なによ、お礼ぐらい口にしてくれたっていいのに。
 話しかけなければ良かったと後悔の味を噛みしめながら、琴子もまた人の波に自ら紛れていった。

🌟

 猫背の男が次に姿を見せたのは、掲示板の一件があった日からふた晩数えた夜だった。なんだかとても難しい顔をして、チケットのもぎりをしていた琴子に向かって大股で近づいてくると、不自然な程に仰々しく頭を下げながら手にしていた回数券の綴りを差し出した。
「お、おねがい、します!」
 面食らった琴子は、とりあえず周囲を見回して他の客がいない事を確認し、回数券をちぎりながら小声で男を嗜めた。
「やめて下さい。どうされたんですか?」
 やっと顔を上げた男と初めて正面から目が合った。まあるい目。すると、頼りなく開いた唇の隙間から、小さな小さな声が漏れてきた。
「この間は……ありがとう……ございました……」
 あ、覚えてたんだ、この人。琴子はあの時感じた後悔を忘れる事にした。
「いいえ、今日は間に合って良かったです。どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」
 決まった。営業スマイル。
 しかし傾げた小首を戻す前に、猫背の男は琴子の脇を擦り抜けて行ってしまった。

「笹岡さぁーん、ちょっと来てぇー、またこの人寝ちゃってる」
 白鳥の呆れ声に呼ばれスクリーン前へと来てみると、あの猫背が気持ちよさそうにリクライニングチェアを最大限に活用して寝息を立てている。
「お客様、起きて下さい。閉館のお時間です」
 軽く肩を揺すってみる。むにゃ、と口元が動くも、目蓋は閉じられたままだ。この人、もしかしたら意外にと若いのかも。視線がかち合った時に意図せず見つめてしまった丸い瞳を思い出し、琴子の頭は一瞬ぼうっとした。すると、
「………う……わっ!」
 やにわに大きな声が上がったかと思うと、男は目の前で直立不動になっていた。
「すすすすすみません!僕っ」
「あー、いえいえ。大丈夫ですよ」
「いや、あの、本当に……すみません……」
「お疲れなんですか?たまにこうやって寝ちゃってますよね?」
「ええでも、居眠りが目的ではないです。ちゃんと星を……星が見たくてここに……」
 歯切れの悪い喋り方だが、真摯に訴えかけてくる。面白い人だ。
「疑ってなんかないですよ。それに、どんな理由でも今は訪れていただけるだけで大変ありがたいです」
「今はって、どういう意味、ですか?」
 意図せず挟んだ短い言葉に男が反応するとは微塵も思っていなかった。しかし、常連の彼にはいずれわかってしまう事。琴子は、男に向き直って廃業の件を打ち明けた。
「そんな………」
 男は暫く言葉を失い、やがて再びリクライニングチェアに沈むように崩れ落ちた。
「嬉しいです。そんなにここを大切に思っていただけているだなんて」
 一瞬でも無礼者のレッテルをこっそり貼り付けていた自分を琴子は恥じた。と同時に、なんだか放って置けないあやうさを持つこの男から、もう少し何かを聞き出したくなってしまった。
「星がお好きなんですね」
「………はい」
「私も好きなんです。でもそういう話が出来る人が周りにいなくて」
「こちらで働いている方は、皆さん星好きじゃないんですか…?」そう言って男は丸い目を更に丸くする。
「実はそうでもないんですよ、笑っちゃいますよね。あ、こんな話、聞きたくないですよね」
 とうとうお客さんの前で愚痴ってしまった。この人の目を見ていると、まるで冬空の一等星でも眺めている時のように心の鍵が解放されてしまう。そんなこんなしているうちに、館内には終業10分前を知らせる音楽が流れ始めた。しかし時計を見改めるとまだ少し早い。さては、と放送ブースの小窓を見上げると、白鳥が小さく舌を出して手のひらを見せた。おおかた、早く切り上げて仕事を上がりたいだけだろう。
「お客様、申し訳ございませんが本日はこの辺りで、」
 お引き取り願おうと締めの言葉を唱え始めると、男は大きく深呼吸をして、これまでで一番大きな声を出した。
「あの、良かったら今度、外で会えませんか」

🌟

 終電の人は、牛尾と名乗った。
 年はやはり、当初思っていた程上ではなかった。百貨店近くに勤務先があって、ゲーム制作会社で3Dグラフィックのデザイナーをしているそうだ。昼間外に滅多に出ないという彼だったが、私の休日に合わせて平日の昼下がりを選んで待ち合わせた。
「普段喋らない時間が長過ぎて、話しかけられても上手く言葉が出てこない…?そんな事ってあるの?」
「は、はい……すみません……」
 牛尾は私の年齢を聞いても敬語を使うのをやめなかった。きっと、大事に育ててもらったんだろう。私はというと、牛尾の律儀でいてちょっと間の抜けたエピソードを聞くたびに遠慮なく大口を開けて笑っている。
「そういえば牛尾さんって、私が勤め始める前からあのプラネタリウムに通ってたの?」
「いや…多分、笹岡さんが入ったのと同じくらいの頃からだと思います。それまでは、地方にいたから」
「へぇ、どちらに?」
 そこで急に牛尾がフリーズした。
「ごめんなさい、私、調子に乗って色々と聞きすぎたかも」
「いや、全然、うん。平気です」
 牛尾は目の前のブルーの飲料が入ったグラスに手を伸ばした。ここは牛尾が「一人じゃ入り難いから」とリクエストしてきた〈星カフェ〉だ。天体をモチーフにしたメニューや内装が素敵で、2人のドリンクにはそれぞれ星形や三日月形に整えられたフルーツやロックアイスが浮かんでいる。
「あっ、じゃあ、お勧めの観測スポットとか、あったりします?」私は話題をすり替えた。牛尾は少し考えた後、郊外にあるいくつかの山の名前を挙げてこう続けた。
「……笹岡さんは、どこかお勧めの場所、ありますか?」
「私?えーと、」
 本当は、心の中では一択しかない。でもくだらない意地が、その場所を滑らかに発音させてはくれないのだ。
「ちょっと、遠いんですけど」私はスマホを取り出して、ある検索結果を牛尾に見せた。
「へぇ、ここは初めて聞きました。有名なんですか?」
「いえいえ全然。ただのど田舎だから」
「地元……なんですか?」
 口に出すのも憚られるその土地の名に抱く嫌悪感が私から声を奪ってしまい、一度だけ小さく頷くのがやっとだった。今度は、私が上手く喋る事ができなくなる番だった。
 ただ興味が湧かなかったのか、それとも返す言葉に困ったのか、どちらかはわからなかったが、牛尾はそれ以上の詮索をしてはこなかった。

🌟

「えっ!行ってきた……って、ほんとに?」
 2人でカフェを訪れた後の、週末をひとつ挟んだ平日の最終上映。回数券の綴りを差し出しながら、行ってきました、と牛尾が呟いた。私が紹介した「ただのど田舎」に早速足を運んだと言う。
「僕にはああいう田舎らしい田舎がないので……羨ましいです」
 琴子は先日の会話を思い出した。今の職に就くまでは地方にいた、と牛尾は確かに言っていた。地方は地元ではないという事か。
「そうですか、良かった。楽しめたみたいで」
「………それで、その、しゃ、写真を……星の写真を撮ってきたんだけど、一緒に見ませんか?この後」
「えっ」
 琴子は一瞬、反射的に身構えた。それは見た目じゃわからない程のごくごく僅かな気持ちの揺らぎだったはずなのだけれど、琴子の動揺を知ってか知らずか、牛尾はすぐに「やっぱりやめます」と引き下がった。上映5分前のアナウンスが場内に流れ、牛尾は会釈だけしてそそくさとその場を離れていく。
「あの!」琴子は牛尾を呼び止めた。
「いいですよ、業務が終わるまで少し、待っててもらえるなら」
 こちらに向き直った牛尾は深々と頭を下げ、足早に上映室内へと消えていった。

 先日訪れた星カフェが、夜間はバーになっていた。当然ながら、格段に良い雰囲気だ。天井からぶら下がる星のモチーフたちには明かりが灯り、蛍光塗料で描かれた星図が足元に浮かび上がる。どのシートも客で溢れていて、人気の程が窺われる。
「やっぱりウケがいいのはこういう感じだよね」
 消えゆく運命が待ち受ける東城のプラネタリウムには一体何が足りないのか、全ての答えがここにあるように思えた。カウンター席でカクテルを呷っては悪態をつく私を見かねて、隣の牛尾がフォローを入れてくる。
「でも僕は、東城の素朴で古風な所が好きです」
「そう言ってくれるのは、きっともうあなたぐらいよ」
 牛尾は澄んだ琥珀色のティーソーダを飲んでいた。
「さあ、本題といきましょうよ。写真、見せて見せて」
 牛尾はリュックの中から一冊のアルバムを取り出した。透明フィルムを剥いで写真を貼るタイプのもので、無精者の私が絶対に選ばない方のアルバムだった。丁寧に写真の位置を決め、空気が入らないようにフィルムを戻す作業を、背を丸めた牛尾が懸命にこなしている姿は容易に想像できる。
「独学で撮影しているので、粗い部分は多目に見て下さい」
 牛尾は軽く溜めを作ってから、私の前にアルバムを広げて置いた。
「………!」
 私はすぐに絶句した。そして、かなりの勢いで最後のページまで一気にめくり終え、そしてまた最初に戻る事を何遍か繰り返した。何巡目かのある一枚を前にして指が止まり、「笹岡さん?大丈夫?」と尋ねられるまで、自分の呼吸が乱れている事に気がつかなかった。
「あ……あの、私……この星空を……知ってる……知ってるの」
「それは、だってここは笹岡さんが教えてくれたから」
「ううん、そうじゃなくて」
 牛尾が相当困惑している。暫く封印してきた箱が開きかけたのを自覚した私は、その中身が暴発してしまう前に、静かに放流する事を選んだ。
「この宇宙そらを見上げる時、いつも私は独りだった」

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