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短編小説『咲くは、君』

「………桜、きれいですか?…あなたの、桜」
 あなただけの。


 白けた太陽が冬枯れた芝生の丘を西へと渡る。
 銀色に透ける輪郭を変幻させ、幾つもの雲が頭上を通り過ぎて行った。
 ベンチの脚の隙間を縫うように吹く二月の風に急かされた僕は、渋々、左腕の時計盤に目を遣った。
 3時5分。
 すでに陽射しの温もりは冷め始め、手元のコーヒーから立ち昇っていたはずの湯気も霧散しきっている。冷えた琥珀色をひと思いに胃に流し込むと、程なく、横隔膜が見事に痙攣し始めた。
「ひ、っく……っ」
 これではまるで、行くあてもなく昼間から公園のベンチでカップ酒をあおるリストラされた会社員だ。急に頭をもたげてきた羞恥心をはぐらかすように、僕は大して崩れてもいないワイシャツの襟元をわざとらしく正し、コートの裾を叩き払った。しかし、軽く咳払いをして辺りを薄目で見渡しても、こちらを気にするような素振りを見せる者などただのひとりもいない。

 枯芝の真ん中で立ち話をする愛犬家たち。
 下校時刻を迎えた賑やかな小学生の集団。
 足早に公衆トイレを借りにきた工事現場の警備員。
 その中のどれにも当てはまらない僕は、トレンチコートに革靴という昼下がりの公園にはおよそ似つかわしくない出で立ちで、深く深く、深く溜息をつく。
 浮いている。身も心もふわふわと。

 すっかり軽くなったコーヒーの缶を傍らに置き、懐から出したタバコの箱の中身を確認した僕は、手のひらで風を避けながらライターに火をつけた。
「あの、」
 間髪入れずに脇から飛んで来たまっすぐな声に、僕の心臓は人知れず飛び跳ねた。しゃっくりは、そこで大人しくなった。
「どなたかそこにいらっしゃいますよね?」
 女性の声。すぐに返事が無かった事に苛立ったのか、語尾が少しだけ早口だった。僕は最初の煙を吐き切ってから、幾分虚勢を張って声の主を横目でいぶかしんだ。
「います。けど?」
 そこで僕はすぐに状況を理解した。白杖の先が真っ先に視界に入ったからだ。しまった。焦る僕の事が見えない彼女はこう続けた。
「そこに、私が座っても構いませんか?」

 僕が陣取っているベンチは、大人でも4、5人は座れる長さがあった。特に詰めなくても良い程度の空きが既にある。今僕は座面の片端にいるので、彼女が立っている側の端になら断り無しに座られても何ら問題ない。
「も……ちろんです。どうぞ」
「ありがとうございます」
 カツ、と仗を当ててベンチとの間合いを確かめた彼女は、淀みない所作でベンチに腰を下ろした。早春のコーディネートにしては少し気の早い、とき色のニットが視界の隅に咲く。そうこうしている間にすっかり灰になってしまたタバコの先だけを、僕は慌てて空き缶の小さな穴に落としたが、結局、そのまま火種ごとプルタブに擦り付けた。その逡巡の隙をついて、再び彼女が口を開いた。
「……あの」
「っ、は……はいっ?」
 もう話しかけられる事は無いと思っていたせいか、僕の声は派手に裏返ってそこらで跳ねた。
「今、何時だかわかりますか?」
「ああ…えっと、3時12分、です」
「3時12分…そうですか」
「ありがとうございます」と丁寧におじぎをされ、僕もつられて頭を下げてから、ああ、そうかと気づき「いいえ」と発声し直した。何とも言えない所在無さを吸い殻ごと缶の中に突き落とし、僕はその場を離れる決意をした。 
 ところが、
「あの……!」
「はい?」
 3度呼び止められて、僕はいささか声色を変えた。この期に及んで一体何の用が。こう言っては悪いが、自分に人助けのセンスがあるとは思えない。
「3時半になったら…また、教えていただけませんか」
 その時、僕は初めてその人の顔を見遣った。僕に横顔を向けたまま、彼女はこちらの様子を窺っている。
「3時半、ですね。いいですよ」
「ほんとに!よかった…ありがとうございます」
 声の音域が低めだからてっきり年上だと思い込んでいたが、実のところそうでもなさそうだ。僕が時告げ役を引き受けたとたん、その頬に赤みが差して纏う空気が和らいだ。
「今日に限って、スマホを忘れてきてしまって。ほんと、助かります」
「……スマホって、使えるんですか」
 見えないのに、と続けそうになって口をつぐんだ僕を察してか、あっけらかんと彼女は答えた。
「ええ、声だけでも操作できますからね」
「ああそうか、そうですよね」
「はい」
 奇妙な沈黙が、二人の間の空席にどかりと座り込んだ。僕はどうにもやりきれず、さっき見たばかりの腕時計に救いを求めた。
 3時15分。

🌸

 この数分の間にも地平を目指す太陽は、確実に、ゆっくりと、落ちて行く。砂を巻き上げたつむじ風が、僕の目の前を脇目も振らず駆け抜けた。夕刻の気配を感じた街鳥たちが撤収の号令を互いに掛け合い、やがて群れを成して、遠のいて。
 僕は恐る恐る、隣人の姿を横目で薄く窺った。相手はこちらが見えないのだから、もっと堂々と、もっとまじまじと見つめてもきっと気づかれはしないだろう。それでも僕はこっそりと、盗み見るように彼女を見た。
 肩を擦る長さの髪は、傾いた陽射しに透かされて明るい栗色に染まっている。そのベールの向こうの瞳は、見えていない事が嘘であるかのように、一心に何かを見つめているようだった。
「………あの」
 口を突いて出た声に驚いたのは自分の方だった。それに比べて彼女はと言えば「もう時間ですか?」と極めて平然としている。
「いえ、えっと、まだなんですけど………あの、」
「はい?」
 苦し紛れに見つけたのは、下手なナンパみたいな言葉だった。
「今日は、待ち合わせか何かですか?」
「ああ……いいえ、違います」
「そう、ですか」
 違う。訊きたい事はそれじゃない。会話に昇華できぬまま半端な尋問で終わってしまったやり取りを僕は悔んだ。すると突然何かに気がついたという風に、血相を変えた彼女がひと息に言い尽くした。
「そっ、そちらこそ、待ち合わせされてたんじゃないですか?私、ここに居ても平気ですか?」
「え?ああ、そんなんじゃないです。大丈夫です」
 良かった、と胸を撫で下ろした彼女は姿勢を崩し、ベンチの背もたれに身体を預けると、会話の先を自ら続けた。
「失礼ですけどあなたまだ、お若いですよね。この席、普段はお年寄りしか座らないんですよ」
「はぁ…そうなんですか。僕、今日初めてここに来たんで」
「………」
 きっと彼女は今、僕がここに座る事になった経緯を詮索している。勘弁してくれ。
 3時18分。緊張が解けた彼女はどこか楽しげに次の質問を練っているそぶりを見せる。ここは上手く話題を相手の事にすり替えたいと、僕は少々強気に出た。
「あなたはその様子だと、良く来ているんですね?ここに」
「はい。毎日来てます」
「毎日?」
「ええ、毎日」
「何をしに?」
 そこまで言ってしまってから、自分の物言いが正に尋問然としている事にヒヤリとした。しかしながら興味はあるのは確かだ。盲目の年頃の女性が寒空の下ベンチにひとり。しかも毎日。そこまで聞いて、理由を尋ねる権利がもし僕にだけ無いのなら、小さく抗議をしたっていい。
 虚ろな眼を宙に向け、彼女は短く答えた。
「桜を、観に」
 僕は思わず、その視線の先に目を遣った。まだ立春をやっと過ぎたばかりの関東平野で、どこを探しても咲いているのはせいぜい梅止まり。僕はキョロキョロと四方を見渡し、困惑の色を声に乗せた。
「………は?」
 僕の反応が予想通りだったのか、彼女はひとしきりクスクスと肩を揺らすとこう言った。
「知ってます。まだ、咲いてない事ぐらいは」
「そっ、そうですよ!しかもあなたは」
「見えないくせに、ですよね。ごめんなさい、ちょっとだけ冗談です。でも、」
 おもむろに振り仰いだ彼女の〈視線〉の先には、数多の花蕾からいをつけた枝が銀の叢雲むらくもを目指して伸びていた。
「あれ、桜なんですよ。わかります?」
 まだ硬く蕾んだそれが一体何の花なのかは、普段から植物を見慣れている者ならすぐにわかるだろう。
「へぇ、そうなんだ」
 残念ながら僕はその、まだ桜としてのアイデンティティを得る前の蕾を他の花のものと見分ける事ができなかった。
「私、去年のお花見は普通にこの目で楽しんでいました。嘘みたいな、ほんとの話」
 ふわり、と、彼女の前髪が浮いた。

 僕がこの公園を訪れたのは、さっき打ち明けた通りこれが初めてだ。
 オフィスビルが林立する街の中心からわずかに一歩離れただけでこれだけの拓けた土地が確保できるのは、地方都市ならではの特権だろう。なだらかな芝生の丘を擁し、草花に溢れるユートピア。季節を問わず人を癒すこの公園が、何故か僕にとっては敷居の高い場所だった。
 ここを訪れる人は皆、何かに行き詰ったり、鬱屈したり、解放されたいと乞い願っている。そんな錯覚をしていたのだと思う。そして自分はそんな弱さを見せまいと、どこかで虚勢を張り続けてきた。
 ところが今日、僕はついにそんな弱者の仲間入りをした。丸3年勤める広告代理店で、社内コンペに負けたのだ。しかも、まだ経験の浅い後輩に。呆然とする僕に、上司はこう声をかけた。
『お前には今、何が見えている?』
 資料探しと偽って会社を後にすると、足は自然とこの場所を目指していた。

🌸

「ここに居ると、私の頭の中に桜が咲くんです。満開の桜が」
 興奮気味に桜の話をする彼女の手元から白杖が転げて落ちた。カラン、と乾いた空気に澄んだ音が響いて、僕はハッキリと我に返った。考えるよりも先に体が動く。白い杖に伸びた手の意思を尊重すると、驚く程スマートに拾い上げたそれを彼女の手の中に戻す事ができた。
「あ…すみません。つい、盛り上がってしまって」
「いえ、全然」
 ばつが悪そうに俯いてしまった彼女は、さっきまでの勢いを完全に失いそのまま黙り込んでしまった。僕はいたたまれずまた無責任に口を開いた。
「あの……」
「時間ですか?」
「いえ、まだ後3…いや、5分、あります」
 3時27分だった。思いついた質問をするために、僕はちょっとだけ嘘をついた。
「……桜」
「はい?すみません、今何て?」
 聞き取れなかったという態で、彼女が僕との間合いを詰める。僕の世界がとき色に染まる。
「………桜、きれいですか?…あなたの、桜」
 あなただけの。
 僕は固唾を呑んで彼女の出方を待った。ほんの数拍、無音の刻が流れたが、すぐに淀みない答えが返ってきた。
「はい、とても」
「そうですか」
「誰が何と言おうと、私が見ている景色は綺麗なんです」
 その時、別の人物の声が僕の頭上を飛び越えた。

「お前またここに居たのか」
 絡みつく風を蹴散らして進む革靴の足元。ひと世代上であろうひとりの男が彼女の前に立ちはだかった。
「頼むからじっとしていてくれないか。今お前に何かあったら、ここまでの治療も水の泡だ」
 高そうなスーツを着こなしたその男は、想定外のトラブルに対応せざるを得なくなったというようなオーラを隠しもせず、彼女に小言を浴びせ続けた。
「とにかくすぐに戻るぞ」
「ちょっ……と、待って!」
 彼女は左腕を引かれたままの体勢で右手の白杖を地面に突っ張ったかと思うと、こちらに向かって会釈した。
「すみません、えっと……時間になる前だけど、ごめんなさい。ありがとうございました」
「いっ、いいえ!僕は何も」
 慌てて確認した腕時計の長針は、とっくに真下を通過していた。真実を伝えられないまま、彼女の背中はスーツの男に支えられて遠のいて行く。

ーー誰が何と言おうとーー

 風の音と共に何度も繰り返される彼女の言葉は、まだ固く閉ざされた花弁のように頑なだった。
 僕はすっかりこの公園の景色の一部となった自らの姿を、脳内で咲き誇る満開の桜の木の下に据えてみた。
 悪くない、のかもしれない。
 忘れかけていた傍らの空き缶の存在に気づいた僕は、かじかんだ指先の感覚を呼び覚ますように、そっと、それをつまみ上げ、温め過ぎてしまったベンチの隅に別れを告げた。
 3時、37分。




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