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短編小説『共に奏でよ沈黙を』

乗り物酔いに悩んでいた懸垂式モノレールで大学に通う「私」は、同じ車両に乗り込んでくる黒ずくめの男を「デビルくん」と密かに呼んでその素性に思いを馳せていた。あるきっかけから、悪魔のような風貌とは真逆の一面を知る事になり…。


 右へ、左へ。
 揺れる鉄の箱の中で、私は今日もじっと耐えている。
 平日のほとんどをこの懸垂式モノレールに乗って朝夕移動するようになってひと月が経つ。この春私は大学に進学した。家がある始発駅と学校の最寄駅との距離はお気に入りの歌を五曲も聴けば着く程なのだが、何べん乗っても足がすくむ。目が回る。キモチガワルイ…こんな事ならもっと、受験勉強、頑張れば良かった。第一志望の大学なら地に足のついた在来線に乗るだけで済んだのだから。ぐるぐると渦を巻く頭の中に、車内アナウンスの澄んだ声が響き渡った。

『次の停車駅は増井、マスイです。左側のドアが開きます』

 …来る。

 私は顔を上げた。
 今日は春の名残で風が強く、窓枠で切り取られた世界は埃っぽく白けている。傾きかけた太陽は擦りガラスの向こうにあるみたいだ。

 …来る。

 ホームに滑り込んだ車両は徐々に速度を落として停車すると、プシュー、と息をついてすかさずドアを左右にスライドさせた。

 …来た!

 革ジャンからブーツまで黒尽くめの長身の男がくいと首を傾げて入り口をくぐる。つむじ風を従え、分厚いソールをゴトゴト鳴らし、悠々と乗り込む姿はただそれだけで威圧的だ。加えて、手にしているギターケースはトゲトゲのスタッズがびっしりのハリネズミみたいな代物だった。
 何の縁か高い確率で同じ車両に乗り込んでくる彼を、私はこっそり〈デビルくん〉と呼んでいる。
 デビルくんは、私の目の前でぽかりと空いていた席を見定めると、さして上等でもないスプリングを目一杯軋ませて体を預けた。周りの人は皆見て見ぬ振りや、いかにも迷惑そうに一瞥をして彼を牽制する。本人はというとそんな視線を物ともせず、腕組みで居眠りを始めてしまうのだった。
 この路線は学生もしくは更にこの先にある動物園を利用する家族連れがほとんど。痴漢も遅延もほとんど無い優良路線だ。そんな模範的風景の中に紛れ込む、ひとりの悪魔。
 彼が乗り込んでくるのに合わせて、私は音楽プレイヤーの液晶画面に指を走らせる。とあるパンクバンドの曲を再生させて、こんな感じで演ってるんじゃないかな、と想像を働かせるのだ。首を振って激しくシャウトするデビルくん。うん、すごくハマってる。不思議な事に、彼に意識を集中させている間だけは嘘みたいに気が晴れた。

『次の停車駅は、動物園前、どうぶつえんまえ。左側のドアが開きます』

 初夏のこの時期は休日に限らず動物園は繁盛している。その昔、絶叫マシンに乗れない私を気遣った父が遊園地の代わりにこの動物園をレジャー先に選んでくれた事がある。しかし結局モノレールで酔ってしまった私は入場前から体力を使い果たし、それ以来、動物園ごと近寄り難い存在になってしまった。

「つかれたよぅママぁ」

 甲高いおねだり声で回想から引き戻されると、小さな男の子が母親と共に斜め前に立っていた。私は直感で席を譲ろうとして立ち上がった。その時だ。
 ゴトン、と鈍い音が、私の動きにぴたりと重なるようにして車両の端から端までを貫いた。

「え…」

 もちろん、私の薄いペタンコシューズの踵が鳴ったのではない。腰を中途半端に浮かせたままのデビルくんが、真向かいで固まっていた。目が合った刹那に悟った。

 ーーー同じ事を考えているーーー

 逡巡する私をよそに、母親のTシャツの裾を容赦無く引っ張って男の子が言った。

「ママ!ママ、ここ空いたよー!座ってもいい?いい?」

 すみません、と会釈した母親がそっと諭すと、私が明け渡した場所にはすぐに小さな体が収まってしまった。
 乗り物酔いとは別の次元で私の目は眩んだ。こちら側に体を向けていた母親は気づいていなかったのだ。もうひとり、席を譲ろうとしてくれた人が背後にいた事を。
 間髪入れずに次の一歩を踏み出したデビルくんは、ゴトゴトと床を踏み鳴らしあっさりと隣の車両に移っていってしまった。

「ほら、あんたがうるさいから、あのお兄さん、向こうに行っちゃったじゃないの」

 母親が音の出ない優しいゲンコツを見舞った。

(違う、違うの!)

 私は心の中で親子に向かって叫んだが、その実、つり革につかまっているのがやっとだった。きっと…他の乗客達も皆で一斉にこの人たちと同じ事を考えているのだろう。
 青嵐に翻弄される鉄の箱は、ちっぽけな私を容赦無く大きく揺さぶった。

 彼は、その日を境にパタリと姿を見せなくなった。
 私は仕方なく、ゴリゴリのパンクチューンを選曲してイヤフォンを耳にねじり込む。デビルくんは友達と話すような場面も皆無で、残念ながらその声を一度も聞いた事がない。一体どんな声で歌い、どんな音でギターをかき鳴らすのだろう。ケースがトゲトゲなら、ギター本体には電飾でもついていたりして…などと、想像は尽きない。
 もう、会えないのかな。
 あんな風体でも考えている事は自分と同じだったという世紀の発見の余韻に私はまだ浸っていた。そしてそれに気づいたのは多分私ひとりなのだ。彼の正義が葬り去られるか否かは私次第だった。

(ああ…キモチワルイ…)

 デビルくんのおかげで快適だった日々が嘘のようだ。狂った重心の置き所が全くわからない。

『終点、ひびきヶ丘、終点です。お降りの際はお忘れ物、落し物にお気をつけ下さい』

 絶叫系アトラクションから這い出るように私はホームへと降り立った。だいふ日も長くなった夕方、駅前のコンコースはまだ白い陽だまりの中にある。逆光でシルエット化した街行く人々の輪郭が、灯火のように揺らいでいた。

 ♪〜

 コンコースから続く遊歩道は緩い登り道になっていて、商業施設が並ぶ奥の区画まで続く。冬場は街路樹に電飾が張り巡らされ、ちょっとしたデートスポットに取り上げられる程見違えるのだが、普段はこうしてのどかな限りだ。
 その代わり映えしない景色に耳馴染みのないアコースティックギターの音が混ざっていることに気付く。

 ♪〜

 前方の路肩に小さな人だかりが出来ていて、音はそこから聞こえてくるようだった。路上ライブ?…珍しい。ここはそこまで流行りに敏感な街ではないので、そういう度胸のある人は皆、私鉄に乗り継いでもっと都心に行ってしまうのに。
 まばらな人垣の隙間から演者の姿がチラリと見えた。

 ♪〜

 ギターの音色に歌声が乗る。近寄ってみると声と音はそれぞれ別人のものだと判明した。ナチュラルな白い麻のシャツが似合う小柄な男の子が高めのキーで伸びやかに歌っている。その隣に置かれたハイチェアに浅く腰掛けてアコギを構えているのは、パンクロック仕様の黒尽くめの男。

(………あれ?)

 足元に置かれたハリネズミのギターケースが目に入った時点で、一致していなかった記憶と現実がピタリひとつに重なった。

「デビルくん…?」

 思わず小さく唱えてしまってから、慌てて口元を押さえた。どう見ても彼なのに、どうしても違和感しかない。それはきっと、聞こえてくる音のせいだ。素朴とかピュアとか、今まで彼を形容するのに絶対必要のなかった単語しか思い浮かばないような音。実際、他の観客も同じことを考えているようで、すぐ前にいるJKが「あの人ギャップ激しすぎじゃね?」などとひやかす声がする。じきに曲が終わり、野次馬たちは誰からともなくふたりに拍手を送った。

「ご静聴、ありがとうございました!僕らここで演るのは今日が初めてなんで、ちょっとキンチョーしました!」

 白シャツの男の子が好感度抜群の爽やかな口調ではにかんだ。こうなると益々デビルくんのワイルドさがぎこちない。

「スケジュールはSNSに上げるんで、良かったらフォローして下さいね!またどこかで足を止めてもらえたら嬉しいです!」

 そう言って〈白シャツくん〉が小さなチラシを配り始めた。まもなく私のところにも回って来たそれには、ふたりのプロフィールが並んでいる。S大軽音部所属…って、うちの隣の学校だ。そう、いつもデビルくんが乗ってきた増井駅が最寄りの大学。私は胸の空く思いでそれを何度も読み直した。

「気に入ってくれた?」

 不意に声をかけられて顔を上げると、白シャツくんがすぐそこで満面の笑みを浮かべていた。気づけば、他の観客はすでに散り散りになり私はひとり残された形になっていた。

「あっ…えと、はい」

 しまった。こんな答えじゃあ、上の空だった事がバレバレだ。それでも白シャツくんはニコニコしたままこちらに歩み寄ってくる。

「君、この辺に住んでるの?僕らまだ活動したてで、歌える場所探してるところなんだ。良かったらこの後、お茶でもしながら話聞かせてくれないかな?」

(何これ、新手のナンパ?)

 流暢な誘い文句に私が二の句を継げずにいると、どこかイラついた様子のデビルくんが白シャツくんの肩に手を置いて黙ったまま首を横に振った。

「あーはいはい、わかったよ…もう、お堅いなぁマサは」

 ごめんねぇ忘れて、と手のひらを返した白シャツくんは「またどこかで!」と去り際も抜かりなくアピールしながら踵を返した。後に続こうとするデビルくん。私は思わずその、鈍く光るレザージャケットを纏う腕を掴み引き止めていた。

「あ、あの…っ」

 あの時はタイミング悪くてごめんなさい。
 あなたも席を譲ろうとしたんでしょう?

 しかし、渇いた喉からは変な音が出ただけで声が出ない。仕方なく助けを乞うようにしておそるおそる見上げると、そこには、困惑と嫌悪が混ざり合った色をした彼の瞳があった。私の指から力が抜けて、解放されたデビルくんは眉根を寄せたままその目を伏せた。

「すみません…!」

 とっさに謝ってみたものの返事はない。束の間の沈黙を目指して街角のノイズがなだれ込んでくる。

「おーい、マサ!早くスタジオ行こうぜ!」

 矢を射るような白シャツくんの呼び声で、世界は再び、元の通りに動き始めてしまった。

 気づけば更に二週間が経っていた。
 いつも通りの帰り道、モノレールの揺れに身を委ねる私はあの時のチラシを幾度となく手の中で丸め、そしてまた広げるという事を未だ繰り返していた。縦横無尽に走るしわを指先で伸ばす。所々破れてしまったその小さな紙切れが、彼との唯一の繋がりだと思うと無下に捨てる事ができなかった。
 もう、無理かな。
 例え次に会う事があっても、声なんか掛けられない。
 胸のつかえを逃がそうと空咳をふたつこぼした所で、右隣の空席が埋まった。

「やほ、この間はありがとねん」
「…は?」

 突然話しかけられた私は気分の悪さを包み隠しきれず、すこぶる感じの悪い形相でその声の主を睨みつけた。

「あは、キミ、意外と強め」

 そこにいたのはあの〈白シャツくん〉だった。とは言え今日は白いシャツではなく、ボーダーのカットソーにチノパンを合わせている。そこそこ見た目には気を遣っているらしく、綺麗にプレスされたボトムスのシワを気にして何度か脚の置き場を変えていた。

「僕の事覚えてる?この間路上で歌ってた」
「…はい、覚えてます」
「良かった〜。僕、S大なんだよね。君も大学生?すでに乗ってたって事はもしかしてT大?」
「はぁ、そうです…けど」
「やぁっぱりぃ!僕も結構この時間乗ってるんだけどー!今まで全然気づかなかったのが嘘みたいじゃね?」
「ええ、まぁ、そう…ですね…」

 この人、あの澄んだ歌声からは到底想像がつかない騒がしさだ。油断したその隙に、白シャツくんが私の手元を覗き込んだ。

「あっ!それ、僕らが配ったチラシじゃん!」

 私はとっさにチラシを膝の上に伏せた。

「嬉しいなぁ、興味持ってくれて!今日は上川町まで行くんだけど、どう?これから一緒に行かない?」

 この流れ、ヤバい感じ。上川町は、ひびきヶ丘で在来線に乗り換えて三つ先だ。

「ウチ、門限厳しくて」
「えーっ!ウソでしょ?まだ五時だよ?小学生じゃあるまいし〜」
「な…っ!」

 ーーーダンッ!

 私と白シャツくんだけじゃなく、スマホゲームに没頭していたおじさんも、おしゃべりに夢中だったJK達も、うとうとしていた優先席のおじいさんまでもが一斉に息を詰めて顔を上げた。車両の床を蹴やぶらんとばかりに踏み込まれた分厚いラバーソールは、見覚えのある人のものだった。

「おー、マサ。なんだいたのかよ」

 余裕綽々、白シャツくんは席を立った。斜め前方のドア際でこちらに目をくべもせず腕組みをするデビルくんに「またお前、邪魔しやがって」と悪態をつき、左右に大きく揺れるつり革を伝い器用に渡り歩いていく。途中、不意に振り向き手のひらをチラつかせ、またね、と白い歯を見せた。

「あっ…ちょっ…」

 カーブを曲がり切った車体が急に揺り戻されて、前のめり気味だった私の体は背もたれにバウンドした。その隙に隣の車両へと続くドアが閉まる音がして、目で後を追った時にはもう、次の停車駅を知らせるアナウンスの残響に揺れるつり革だけがそこにあった。

 ひびきヶ丘のホームに何とか降り立つ事が出来たものの、いつも以上に平衡感覚を失っていた私は、改札口を目指す人々の流れから早々に脱落した。ホームベンチにすがりつくようにして体を預け、目蓋を閉じる。
 相変わらず近寄りがたい空気を振りまいていたデビルくんの姿を思い浮かべ、少し前に聴いた路上ライブの記憶を重ねてみた。あの見た目と奏でる音との間にあるギャップを埋めてみたいのに、その為の材料を私は何ひとつ持ち合わせていない。

「はぁ……………」

 自分でも引いてしまう程深い溜息が出た。
 両膝に肘をついて頬杖を作った私は、折り返し運転で来た道を戻って行くモノレールの後ろ姿をぼんやり見送った。車両が消えたホームでは、次の始発を待ち構える人たちが既に列を成している。駅舎の鉄骨の隙から差し込んでくる斜めの陽射しは既に桃色に染まっていて、もう、今日が終わるのだと絶望的に理解する。
 やにわに視界に入って来た黒い影に私は一瞬、夜が来た、と錯覚をした。

「デ…!」

 デビルくん、と思わず叫びそうになって、慌てて舌の上で鎮火した。さっき私を救ってくれた雷を放った踵がゴツ、ともう一度鳴った。真っ黒だと思っていた彼のスキニーパンツは、濃紺の生地に迷彩柄の織りが施されていて、光が当たる角度で違う表情をみせている。

「あの………何か…?」

 私と対峙する彼は、ひたすらそこに在り続けるだけで口を開こうとしない。私は息をするのも堪らなくなって、他に為す術もなく俯いた。足元のタイルが描く直線的な道筋を何気なく目で追っていると、不躾に差し出されたスマートフォンの液晶画面に並んだ短い字列が視界に飛び込んできた。

【大丈夫ですか】
「え…っ?」

 何が?…あ、私が?

「大丈夫…で、す」

 見上げたデビルくんの瞳には初めて見る安堵の色が混ざっていた。おもむろにスマホを構えなおし、ゲームのコントローラーを扱うような慣れた手つきで次の文字列を素早く打ち込んで見せた。

【連れが迷惑をかけてすみません】

 連れ、とは白シャツくんの事か。そういえば、耳を澄ます限り彼はこの辺りにはいないようだった。

「いえ…迷惑だなんて…」

 これ、筆談、ってやつ?
 デビルくんは視線と液晶画面を駆使して私にその意思を伝えてくる。

【正直ぼくもあいつには手を焼いてるんです】

 その一文の終わりに「あーあ」という顔の絵文字が添えられていたので、私は思わずくすりと笑ってしまった。

「あっ…、す、すみません…」

 調子外れなやりとりにばつが悪くなって、私はまた彼の目を見られなくなった。そんな私のすぼまった肩に、デビルくんの指先が軽く触れる。心なしか強引に突き出された光る画面の中、新たに綴られた言葉にピントを合わせた。

【ぼくは今 声が出ません 出せません】

 一度読んだだけでは足りなかったので、私の視線はその短い文の上を少なくとも五回は行き来した。

「………何で、ですか?」

 彼が次の文を打ち込み終わるのを息を詰めて待つ。

【喉をこわして手術をしました あと二十日は絶対にしゃべるなと医者から言われています】
「え…」
【なので、あなたがぼくに何か言いたそうにしているのはわかっていたけど、うまく受け答えできませんでした ごめんなさい】
「そ…んなこと!平気!全然気にしてない、です!」

 デビルくん、噛みしめた下唇が白く透けている。

「こっちこそ、ごめんなさい…!あの、覚えてますか?モノレールで席を譲ろうとした時の事」

 こくり、と、彼は音のない答えを返す。

「あの時あなたも同じ事を考えていたんだって、私、目が合った時に気づいたの。あのお母さん、あなたの事を誤解して〈あんたがうるさくしたからお兄さん向こうに行っちゃったのよ〉…って怒ってて…私、そうじゃないよって言いたかったのに、言えなくて…」

 ごめんなさい。

 それを伝えるチャンスにようやく巡り会えたというのに、どこもおかしくないはずの私の喉からは申し訳ない位貧弱な声しか出て来なかった。
 一拍置いて、デビルくんの指が再び画面を叩き始めた。

【なんで謝るの?】
「だって、あなたの厚意を私が無にしちゃったから」
【いいよ そんなこと】

 慎重に言葉選びをするデビルくんは、時々もどかしそうに小さな舌打ちを挟みながら少し長い文章を打ち終えた。

【今ぼくはこんなだから 人と関わるのをわざとさけています 誰かと一緒にいるとついしゃべりたくなってしまうから だから 今のぼくが誤解を受けてもそれはぼくの計画が成功しているからであって あなたは気にしなくていいんです】

 読み終わる頃合いを見計らって、彼はもう一度私の肩にわずかな合図をくれた。

 あ り が と う

 一音ずつを区切るように動くデビルくんの唇が、音の無い声を確かな形にして私の元に送り出す。数多のわだかまりが解放されて、私は自分の頰のてっぺんが夕陽を集めたように染まるのを感じた。

「わざと、って…もしかして、その格好も?」

 おもむろにジャケットの両裾をつまんで背筋を伸ばした彼は、その場でくるりとひと回りしてピースサインを見せた。

「えぇーっ!」
【似合う?】
「似合うもなにも、全っ然違和感ないよ」

 いつの間にか砕けたやりとりになっている。

【仮装のアイデアは 相方のものだけどね】
「相方って〈白シャツくん〉?…あっ」

 つい、心の中の呼び名で呼んでしまってから、私は慌てて口をつぐんだ。合点がいったという素振りを見せたデビルくんは、込み上げる笑いを何とか逃がそうとして必死に肩を震わせている。

「ごめん…っ!」

 声が出せない人を笑わせるなんて、拷問にも近い行為だ。
 デビルくんは親指と人差し指で作ったOKを差し出して何度となく頷いたあと、自分を指して無声音で「ぼくは?」と言った。

「わっ、わわわわわ!ない!そんなのないから!」
【うそだ】
「……………うそじゃない…です…」
【じゃあ ぼくもあなたをどう呼んでたか今度教えるから】
「え⁈」
【ちゃんと声が 出るようになったらね】

 これまで見たことのない、穏やかなデビルくんがそこに居た。それは、この間聴いた彼がギターで奏でた音色の雰囲気そのものだった。
 その時、改札口方面から白シャツくんの声がして、私たちは揃って顔を見合わせた。デビルくんはちょっと焦った様子で足元のハリネズミに右手を伸ばし、左手でスマートフォンを華麗に操ると、あらたまって画面をこちらに向けた。

【また はなしあいてになってくれますか?】

 急いで打った文字は変換が省略されていて、小さな子のお願いみたいでなんだか微笑ましかった。私は「はい」とだけ短く、それでいてはっきりと伝わるように、声にした。



 了
 

 

 


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