見出し画像

短編小説『星を知る人 -Reprise-』

 外に出てみないと気付かないのだ。
 狭い世界の中の狂ったルールに。
 自分に押し付けられていた価値観が、どれ程ちっぽけなものなのか。

こちらの物語は以下の作品を閲覧後にお楽しみください。↓


 僕の知らないうちに今日は軽く雨が降ったらしい。表通りの店先を彩るカラフルな照明を捉えた薄い水たまりが、ヨーヨー釣りの大タライみたいに華やいでいる。仕事終わりを楽しむ人々が行き交う歩道を、牛尾煌大こうだいはひとり滝登りでもしているような気持ちで突き進んでいた。
 梅雨の開けきらない粘りのある湿気を含んだ街は、しかしながらあっけらかんと乾いた笑顔を見せる人で溢れている。少なくとも自分とは種類の違う人たちだ。僕にはできない。何故できないのか、その謎がわかった時にはもう遅かった。僕はもう〈そっち側〉に並んで笑うような事は一生できないだろう。

 滝行のような苦しみを味わいながらも、何故、僕がこの道を選び進んでいるのか。それは、ある大切な目的があるからに他ならない。じきこの先に見えてくる老舗百貨店をひたすらに目指しているのだ。レトロな建築と、派手すぎない雰囲気が周囲の派手なファッションビルと一線を画している〈東城百貨店〉。
 ここの最上階に、僕と同じ〈こちら側〉の人がいる。

🌟

 東城百貨店は最上階にプラネタリウムを擁しているおそらく唯一の百貨店だ。娯楽施設といえば屋上遊園地がひと昔前までの流行りだったようだが、その当時においてプラネタリウムを作ろうと決めた東城の心意気に僕は心から拍手を送りたい。騒いではしゃぐだけではない、心静かに過ごせる場所を、この都会の喧騒のど真ん中に作ってくれて、本当にありがとう、と。

 百貨店の区画に差し掛かる所に、古い掲示板がある。ここにはプラネタリウムの上映時間等が告知されていて、飛び込みで来た時もここで確認を取る事ができる。ただポスターを貼り付けるだけではなく、季節に合わせた装飾が施されている上に、近々見る事ができる天体ショーが案内されているなど工夫されているので、煌大は暫く掲示板の前にいる事も少なくなかった。

 一心不乱にここまで来たのにはもう一つ理由があった。すっかり夜になってから仕事を切り上げてプラネタリウムに向かう煌大は、いつもその日の最終上映回に滑り込むのがやっとなのだ。今日は週明けで立て込んでいたせいもあって更に遅れてしまった。専門学校に通う為に上京し、3Dグラフィックデザイナーとして働き始めて3年程になる。
「えっと、今日の上映時間は……」
 やっとたどり着いた掲示板の前で、煌大は目を見開いた。
「あれ、もう終わってる?」
 そんなはずは、と、腕時計と掲示板を何度か目で往復したが、今日に限って普段よりも一回分早く切り上げられていたようだった。痛恨のミス。でもこんな事、初めてだ。
 肩を落として溜息をついたその時、後ろから聞き覚えのある声がした。
「あの、今日はもう終わっちゃったんです」
 振り返ると、プラネタリウムのスタッフの子がそこにいた。私服のせいか少し雰囲気が違ったが、間違いない。あの子だ。僕と同じ〈こちら側〉の女の子。実はネックホルダーのIDで名前もチェック済みだったりする。僕はというといつもの悪い癖が出てしまい、あえなく醜態を曝け出す事になった。
「えっ、あっ、うっ」
「ああ、突然すみません。私、プラネタリウムのスタッフです」
 知ってます、笹岡さん、ですよね。
 僕は心の中で流暢に応対する自分にツッコミを入れた。気持ち悪いと思われるぞ。やめておけ。
 彼女は挙動不審な自分を前に当然ながら困惑の表情を浮かべている。
「今日は特に回数を減らされてて。ごめんなさい」
 なんで貴方があやまるんですか!ちゃんと調べてこなかった僕の方が悪いんです!
 と、伝えようと息巻いたものの、僕はその場で深々と頭を下げる事しかできず、逃げるように立ち去るこの身体を止められなかったのだった。

🌟

 勤務時間外にわざわざ声を掛けてくれたのに。満足にお礼のひとつも言えなかった自分が不甲斐なさすぎて、眠れない夜がふた晩続いた。

 一人暮らしの自室は、地下鉄で20分程下った先にある住宅街の中にある。高層ビル群を窓から臨む、比較的空の開けた地域だ。煌大は自作の望遠鏡を未だ紫紺に染まる空に構え、明けの明星が朝の光にかき消されてゆく様子を見守った。

 都心の空はさみしい。数える程しか星がいない。
 当の本人は他人に囲まれることを良しとしない癖に、スカスカの夜空を見ていると不安で不安で仕方がない。そんな心もとなさを払拭しようと拠り所を探してたどり着いたのがあのプラネタリウムだった。職場から5分と歩かない所に満点の星空があると知った時、それだけで打ち震えたものだ。
 通い始めて程なく、ひとりのスタッフの笑顔に心を奪われた。笑っていない。彼女は笑っているようで笑っていなかった。他のスタッフは男女問わずみんな朗らかに笑っている。まるで何の悩みも苦しみもありませんよとでも言うように。それが客商売が盛んな都会の普通の風景だと思っていた。

 あの子はなぜ、笑えないのだろう。
 彼女の笑顔を見る度に僕は、叶わない夢を想うような気持ちになった。

 ふと、座卓の上に広げたままにしていた天文雑誌の1ページに目が止まった。難しい天文知識とは少し距離を置くライトな一般情報ページだ。普段は読み飛ばすような雑多な記事の中に、東城百貨店が建つ街の名前がある事に気がついたのだ。
 『〇△町にキラキラかわいい☆〈星カフェ〉ニューオープン!』
 「星……カフェ……」天体をテーマにした店舗で、夜はバーになるという。
 写真の中で星カフェのメニューを手にする笑顔のモデルたちと〈笹岡さん〉の姿を重ねる。まだ若い彼女なら、こんな場所にも通ったり………、
「しないんだろうなぁ、きっと」
 そう、きっと。彼女はこんな風に笑ったりできない。

 一念発起して、その夜ついにあれ以来初めてプラネタリウムに足を運ぶ事にした。今度はしっかり、事前にネットで上映時間を調べた。最終上映回は、夜の7時半。時計とにらめっこで仕事をこなしたが、結局、職場を飛び出せた時には既に7時15分を回っていた。
 百貨店のエレベーターが最上階に着くなり、手には回数券の綴りを握り締め、煌大はズカズカと大股でプラネタリウムの入場口に向かった。そのくらい勢いをつけないと、また身体が勝手に回れ右をしてしまいかねなかった。
「お、おねがい、します!」
 チケットの確認係をしていた彼女に、僕は仰々しく回数券を差し出し頭を下げた。すると頭上から、鋭く囁く声がする。
「やめて下さい。どうされたんですか?」
 ハッとした僕は恐る恐る顔を上げた。正面から彼女と対峙するのはこれが初めてだ。目が合った瞬間、思っていたよりも自分との身長差がある事に気付いて少し焦った。無愛想故によく言われるのだ。そんな風に見下すな、と。彼女にもそう思われてはたまらない。煌大はすかさず先日の失態を挽回するべく口を開いた。
「この間は……ありがとう……ございました……」
「いいえ、今日は間に合って良かったです。どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい」
 そう言って彼女はいつものあの笑顔を見せた。僕はまた、無性に自分の無力さを実感した。僕ひとりが現れた所で、彼女の感情ひとつ動かす事はできないのだ。
 のぼせ上がっていた頬の先から急速に熱が冷めていく。僕はもつれる足を奮い立たせて、上映5分前を告げるアナウンスと共に上映室へとなだれ込んだ。

「…く様、お客様、起きて下さい。閉館のお時間です」
 ん?ここは……えっと、僕は何を……、って、
「………う……わっ!」
 やってしまった。事もあろうに今日に限って居眠りなんか。頭の中が真っ白になった僕は、彼女の声を聞き分けた瞬間、反射的にその場で起立をしていた。
「すすすすすみません!僕っ」
「あー、いえいえ。大丈夫ですよ」
「いや、あの、本当に……すみません……」
「お疲れなんですか?たまにこうやって、寝ちゃってますよね?」
 そう、実の所眠ってしまったのはこれが初めてではない。ここに来る日は大概、まとまった案件がひと段落した夜と決まっている。なので、溜まった疲れに抗えず、心地よい星影の元ですやすやと寝入ってしまう事がごくごくたまに、あるのだ。バレていないと思っていたが、しっかりとバレていた。
「ええでも、居眠りが目的ではないです。ちゃんと星を……星が見たくてここに……」
 僕はなりふり構わず弁明した。すると彼女の唇から、ふふ、と聞いた事のない柔らかい声が漏れた。ほんの一瞬だけだが、彼女が〈笑って〉いる様に見えたので、僕はますます舞い上がってしまった。
 もっとずっと、このまま見ていたい。厚かましくもそんな事を考えていた。
 彼女は少し呆れた様に息を吐いて、灰色のドーム型スクリーンを見上げて言った。
「疑ってなんかないですよ。それに、どんな理由でも今は訪れていただけるだけで大変ありがたいです」
「今はって、どういう意味、ですか?」
 僕はその不自然な一節にすぐに反応した。強調する程〈今〉が特別と感じるのは、いずれこの日常に何かしらの変化があると知っているから。
「お客様は、良く当館をご利用いただいているので特別に……お話しますね。東城百貨店は今年いっぱいで閉館して取り壊される事が決まったんです。もちろんこのプラネタリウムも……あっ、この件はまだ、絶対に外で話さないで下さいね」
 鳩尾を殴られた様なダメージを受けた僕は、再びリクライニングチェアの懐に身体を預ける事となった。
「そんな………」
 やっと見つけた拠り所をこんなにも呆気なく失う事になるとは。ただでさえ気の利いた台詞など何ひとつ言えないのに、僕は完全に言葉を失ってしまった。
「嬉しいです。そんなにここを大切に思っていただけているだなんて。星が、お好きなんですね」
 我に返った僕は顔を上げ、彼女の問いに大きくうなずいた。
「私も好きなんです。でもそういう話が出来る人が周りにいなくて」
 ーーーえ?
「こちらで働いている方は、皆さん星好きじゃないんですか?」
「実はそうなんですよ、笑っちゃいますよね。あ、こんな話、聞きたくないですよね」そう言って彼女ははにかんだ。
 そうなのか…いや、考えてみれば、好きな事を仕事にしている人なんてそうそういるものじゃない。彼女はそういう、稀有な人なのだ。大切な場所を失う辛さはいかばかりか。
 この人の話をもっと……もっと、聞いてみたい。

 館内にはいつの間にかピアノの旋律が響き始めていた。閉館時刻を案内するアナウンスが流れてくる。彼女はちょっと焦った様子で、僕に退館を促す為丁寧に案内をし始めた。
 僕はひとつ大きく息を吸って、流れ星に願いを託すが如く一心に訴えた。
「あの、良かったら今度、外で会えませんか」

🌟

 生まれて初めて自分から人を誘った。誘ってしまった。彼女は確かにいいですよ、と言った。

 僕は人との距離を推し量るのが苦手だ。他人に興味が持てず、意図せず人を傷つけ、孤立していた思春期。大人になってそれを自覚してからは努力してそれなりに気を遣う事を覚えたが、気を遣い過ぎるが故に一周回って〈無愛想〉と揶揄される。

 それもこれも全ては〈あの人達〉が元凶だ。
 一生取れない心の汚れ染みを作ったあの人達の。
 その染みは、時間が経てば経つ程色濃く、醜くなっていく。

 星空は、僕のその芯の深い染みを夜の闇に紛れさせ、忘れさせてくれる。そして、彼女の事を考えている時もまた、同じように。

 ふたりで会う約束をした時、彼女は丁寧に名を名乗った。笹岡琴子。名札を盗み見て既に知っていたとは言い難く、煌大もまた、出来る限りの礼儀を尽くして自己紹介をした。
 煌大はある程度時間の融通が効くので、場所は職場近辺でという条件で日取りは琴子の休日に合わせる事になった。
「牛尾さんの職場って、この近くなんですよね?どこかいいお店知ってます?」
 僕は、今朝見た雑誌の記事を思い出し、神様に感謝した。待ち合わせはすんなりと、例の〈星カフェ〉に決まった。

 琴子は当然自分よりも年下だと思ってはいたけれど、実際に聞いたのは、もっと派手にはしゃいで過ごしていてもおかしくないような年頃だった。年の割には影がある。しかしそんな煌大の先入観も暫く会話をしているうちに少しずつ打ち砕かれ、ただの杞憂だったと気付かされた。次第に砕けた表現になってゆく琴子に比べ、煌大はいつまで経っても敬語をやめるタイミングを掴むことができなかった。
「牛尾さん、あんまり話すの得意じゃないでしょ」
 僕は観念して素直に首を縦に振る。でも、少し見栄を張って苦し紛れに「全く声を出さない職種のせいで、急に話しかけられると上手く喋る事ができない」という、鶏が先か卵が先か、みたいな理由を後付けした。それを聞いた琴子は信じられない、という風にあっけらかんと笑い始めた。
 この子はこんな風にも笑えるんだ。それなのに、自分と同類かもしれないなどと勝手に括っていたなんて。僕はなんだかいたたまれなくなり、すみません、と頭を下げた。
「そういえば牛尾さんって、私が勤め始める前からあのプラネタリウムに通ってたの?」
 琴子は勤め始めて丸3年だと言っていた。おそらく、煌大がプラネタリウムに通い始めた時期と一致する。
「いや…多分、笹岡さんが入ったのと同じくらいの頃からだと思います。それまでは、地方にいたから」
「へぇ、どちらに?」
 刹那、封じていた心の汚れ染みから次々と見覚えのある風景が繰り出され、僕は完全に言葉を失った。訝しげに僕を覗き込む彼女の目には困惑の色が浮かぶ。
「ごめんなさい、私、調子に乗って色々と聞きすぎたかも」
「いや、全然、うん。平気です」
 煌大は目の前のブルーの飲料が入ったグラスに手を伸ばした。そこには、星形や三日月形に整えられたフルーツやロックアイスが浮かんでいる。自分が纏う闇のせいで折角の太陽の笑顔を曇らせてしまった。悪い事をしたなぁ、と反省しつつ、ソーダをストローで勢い良く吸い上げる。
「あっ、」
 琴子が何かを思いついたと言う風に手のひら同士を胸の前で合わせた。
「じゃあ、お勧めの観測スポットとか、あったりします?」
「お勧め…ですか…?」
 煌大は少し考えた後、郊外にあるいくつかの山の名前を挙げた。どこも車で2時間かかるか、かからないかの場所にある。たまに足を運ぶ程度だが、しっかり準備して観測に挑めば、驚く程たくさんの星を写真に収めることができるのだ。
「……笹岡さんは、どこかお勧めの場所、ありますか?」
「私?えーと、」
 琴子は腕組みをして考え込み始めた。しかし幾ら待てども一向に候補が上がってこない。ためらいがちに口を開きかけては、また噤むを繰り返している。
 何か、言い辛い事でも聞いてしまったのだろうか。煌大がハラハラと見守る中、おもむろにスマホを取り出した琴子は慣れた手つきである検索結果を導き出すと、こちらに差し出しながらこう言い添えた。
「ちょっと、遠いんですけど」
 それは、初めて目にした地名だった。パッと見ではすんなり読み進められない難読問題だ。並んでいる画像からすると、あまり観光地化されていない山間の町のようだった。
「へぇ、ここは初めて聞きました。有名なんですか?」
「いえいえ全然。ただのど田舎だから」
 琴子は謙遜してぎこちなく否定した。
「地元……なんですか?」
 彼女は、俯いたまま小さくひとつ、うなずいた。

🌟

 デジタルカメラ、赤道儀、鏡筒。土曜の早朝、天体の撮影に必要な機材をひと通りまとめた煌大は、再度スマホの地図アプリで例の地名を検索にかけた。
 一度見たら忘れられないその土地の名を、彼女は何らかの悪い理由で口に出すことすらできなかった。気のせいだろうか?考え過ぎかもしれない?また、自分の気遣いの方向が間違っているのだろうか。
 しかし単純に今は、煌大の内にあるスターゲイザーの血が騒いでいる。幸いこの週末の天気予報は上々だ。煌大は朝食もそこそこに、荷物を車に積み込んだ。

 ひたすらに北上を続け、長いトンネルを三つほど抜けた先にその地はあった。片道にして3時間弱。熱波と蒸気で燻っている梅雨明け間近の都心とは違い、木陰で浄化された空気を吸うだけで清涼感を感じられる。道の駅で情報と食料を調達した後、夜間の観測が出来そうな場所を案内所で尋ねると、山頂まで車で登れる森林公園を紹介された。
 ただのど田舎、と彼女が形容したくなる気持ちがだんだんとわかってきた。古来林業が盛んな土地らしく、観光客好みの果樹園などはあまり見かけられない。きっと、最高に澄んだ夜空を拝む事ができるに違いないだろう。たどり着いた目的地で車を停めた煌大は、夜まで車内で仮眠を取る事にした。

 そこで僕は、昔の自分の夢を見た。
 大人になって子どもだった頃の自分を俯瞰で考えられる様になると、そういう夢を頻繁に見る様になっていた。夢の中で大きな僕は小さい僕の姿を見つめている。彼は表情ひとつ変えずに見覚えのある家で〈ひとりで〉暮らしている。食べたお菓子がが美味しくても、テレビ番組が面白くても、何を感じても共感してくれる者は居ない。
 哀れだ。大きな僕は小さい僕を何とかしてかまってあげたいと願うけど、叶わない。足掻いて、足掻いて、足掻き疲れた所で目が覚める。
「夢で良かった」だなんて思えたならば、どんなに楽だろうか。

 マジックアワーに入ったとたん、星々が一斉に瞬き始めた。その数は徐々に天の隅々まで増殖し、そのうち空全体が一様に白く光り出すのではないかと見紛う程のたくさんの綺羅星で埋め尽くされた。過去に観測目的で訪れた土地は専門雑誌が紹介していた所ばかりだが、そのどこよりも素晴らしい眺めだった。人工的な明かりとは無縁の常闇で、ひしめく星たちの囁きまでもが聞こえてくるようだ。
 ただ仰ぎ見ているだけでは飽き足らず、煌大はその場でなりふり構わず大の字に寝転んだ。するとそこは正しく宇宙のど真ん中。
 僕は今、地球そのものになった。そう思った。

 その後、フル充電してきたバッテリーパックが軒並みゼロになるまで、カメラで星を追い続けた。気づくと東の山の端から有明の月が昇り、空が次第に青を取り戻してゆく。
 まだ少年だった頃、僕はこの時間が一日の中で一番憎くて仕方がなかった。朝なんか来なくていい。朝が来たら、また必ず夜がやってくる。そしてまた朝が来て、夜が来て。まるで同じ一日を繰り返す悪夢のような抑揚のない日々を、僕は息を殺し駆け抜けるように生きていた。
 戦々恐々とした少年の日々に別れを告げた時、明け方の空に残る星の瞬きに初めて気がついた。照りつける太陽のように存在を主張してはこないけれど、ただ静かにそこに在り続ける星たち。そして僕は気がついた。ずっと、こうして見守られていたのだと。

 朝が来る。もう今の僕は夜明けを拒まない。

🌟

 撮影した天体写真は、その一晩分だけで軽く200枚を超えた。その中から選りすぐりを数十枚程選んで紙焼きにし、アルバムに整理する作業に5日かかった。その大作を携えて、僕は今日再び彼女を誘おうと思う。

 プラネタリウムにたどり着くとすぐ、入場口で待ち受ける彼女の姿が目に止まった。背筋をピンと伸ばした凛々しい姿に、自分の身も引き締まる。
「あの……どうも。こんばんは」
 回数券を差し出しつつ、僕は至極平静を装って当たり障りのない挨拶をした。客が僕だと気がついた彼女が、微笑みながら応対する。
「あ、こんばんは。本日もようこそ」
 あれ?
 気のせいだろうか。彼女の笑顔が違って見える。
 少しでも僕に心を開いてくれたのだとしたら嬉しいけれど。
 振り返って後ろに他の客が続かない事を確認してから、勢いを失う前に本題を打ち明けた。
「僕、行ってきました。笹岡さんお勧めの観測スポットに」
「行ってきた……って、ほんとに?」
 信じ難いと言うように琴子が口を覆う。無理もない。縁のない者が気軽に足を運ぶような場所ではなかったし、何より、彼女にはその土地に何らかのわだかまりがあるに違いないのだ。
「すごく素敵な所でした。僕にはああいう田舎らしい田舎がないので…羨ましいです」
 と、恐る恐る率直な気持ちを述べてみる。
「そうですか、良かった。楽しめたみたいで」
 琴子は呆れたような面持ちだったが、どうやら煌大の無謀な報告を受け入れてくれた様子だった。
「………それで、その、しゃ、写真を……星の写真を撮ってきたんだけど、一緒に見ませんか?この後」
「えっ」
 一瞬、琴子の表情に影がさした。
 ダメか…。
 僕は急に怖気付いて、「やっぱりやめます」と手のひらを返した。
 上映開始5分前のアナウンスが館内に響く。潔く頭を下げて、僕はそそくさとその場を後にする。僕は後悔の嵐の中にいた。大体、仕事中の彼女に私用で話しかけた時点で迷惑行為なのだ。
 すると程なく背後から「あの!」と呼び止められた。
「いいですよ、業務が終わるまで少し、待っててもらえるなら」
 よろめきながら回れ右をすると、彼女のちゃんとした笑顔が目に飛び込んできた。僕は深々と頭を下げて、上映室へと踵を返した。

 雑誌に載っていたあの記事を、偶然とはいえ読んでいて本当に良かった。琴子の閉館業務が終わったのは20時半頃。先日のカフェが夜はバーになっているのだと煌大が告げると、琴子は興味を示した。
 バー仕様の店内は、昼間とはまた違った顔を見せていた。天井から吊り下げられた星モチーフには明かりが灯り、蛍光塗料で描かれた星図が足元に浮かび上がる。どのシートも客で溢れていて、人気の程が窺われる。
「やっぱりウケがいいのはこういう感じだよね」
 琴子は唇を尖らせ、拗ねた子どものような態度で肩を落とした。同ジャンルの施設として、片や繁盛しているこのバーにどうやら嫉妬しているらしい。カウンター席でカクテルを呷る度に悪態をつく琴子の隣で、煌大はティーソーダのグラスを揺らした。
「でも僕は、東城の素朴で古風な所が好きです」
「そう言ってくれるのは、きっともうあなたぐらいよ。さあ、本題といきましょうよ。写真、見せて見せて」

 僕はリュックの中からアルバムを取り出した。透明フィルムを剥がして写真を貼るタイプのアルバムは、ずしりとした重みを好んで選んでいる。
 緊張する…撮ったものをこうして誰かに見せる事自体が初めてだ。
「独学で撮影しているので、粗い部分は多目に見て下さい」
 その場で小さく深呼吸。目蓋の裏にあの星空を思い浮かべる。よし、覚悟はできた。狭いカウンターテーブルの上を適当に片付けて、僕は彼女の目の前に広げたアルバムを置いた。

 星空と対峙した琴子は息を呑んで絶句した。じきにゆっくりとページはめくられ始め、最後まで到達するとまた始めへ戻る、という事を数回繰り返した。暫くすると、ある1枚の星空を前に琴子は微動だにしなくなった。流石に心配になって横顔を覗いてみたが、しっかりと見開かれた目は机上の星空をみつめたままだ。ところが次第に彼女の呼吸が乱れ始めたので、煌大は流石に焦って声を掛けた。
「笹岡さん?大丈夫?」
 正気を取り戻した琴子が肩で大きく息をする。
「あ……あの、私……この星空を……知ってる……知ってるの」
「それは、だってここは笹岡さんが教えてくれたから」「ううん、そうじゃなくて」
 そうじゃなくて?どういうことだ?
 混乱した煌大は言葉を失った。
 ごくり、と小さく動いた喉元が目に入る。 
 沈黙を打ち破ったのは、琴子の方だった。
「この宇宙そらを見上げる時、いつも私は独りだった」

ここから先は

4,288字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?