中国哲学関係の本を読んでの覚え書き

★浅野裕一さんの『古代中国の宇宙論』(岩波書店 2006)。

 〈なぜ、地球上で最も長く続く中国文明・中国文化において、産業革命のような自然科学の大発見が起こらなかったのか〉を考える本。
 浅野さんの見解では、古代から続く中国の宗教観に原因がある。すなわち、〈人格を持った神〉を主神とする一神教が生まれなかったことで、自然を〈他者〉として研究する方向付けが生じなかったのではないか。
 一神教が生まれなかった要因の一つには秦の始皇帝による挟書きょうしょりつ焚書坑儒ふんしょこうじゅ)があり、思想統制・弾圧がなされたことで諸子百家以降のさらなる思想展開・発展が望めなかった。この害は大きい。


★森三樹三郎さんの『「名」と「恥」の文化』(講談社学術文庫 2005年)。

 中国は、秦の始皇帝時代に封建制をやめている。そしてそれ以降、統一王朝の形態が続いている。これは、日本が明治時代に廃藩置県をしたのと同じことで、それを中国は2000年以上前に達成している。そしてマックス・ウェーバーによると、それ以降の中国の社会制度は〈家産制〉になり、子が父に従うように、全国民が、皇帝に従うことを要請するようになる。

 日本と西ヨーロッパで見られた封建制下では、各地に諸侯がいて、騎士・武士階級の人間は、仕える諸侯を選びつつ忠誠を誓い、そうすることが名誉でもあり徳でもあった。だからこのときの騎士・武士には、〈忠誠=自己否定の徳〉と〈名誉心=自己主張の徳〉とが両立していた。
 しかし中国で見られた家産制下では、ただただ忠誠だけが要求されることで、〈恭順=自己否定の徳〉だけに集中した。その結果、官吏的名誉心がふくれあがり、これがいわゆる〈面子メンツ〉になる。
 だから、日本・西ヨーロッパで言われる名誉心と、中国で言う面子を同じものと考えてはならない。封建制が最近まであったか・なかったかの影響は、とても大きい。



 森さんの本を読みながら、「宗教心が薄れ、封建制をやめた現在の世界各国は周回遅れで中国的な自己意識の道をたどっているのかもしれん、ということかしら……」と思っていたら、本の結論も、そんなような方向で締めくくられていました。もちろん、もっと深い考察を伴って、ですが。

 超超高度な文明を持っていた中国で産業革命が起こらなかったのはなぜか?の疑問は私も抱きましたが、それ以上考えたことはなく、また、江戸と明治でいろいろガラッと変わったことは一応知ってますが、封建制度の影響という視点で考えたことはありませんでした。
 そういえば徳川3代目だったか5代目だったかの安定期に入る頃には〈農民の脱武士化〉・〈武士の官僚化〉に苦労していたと『偽書『本佐録ほんさろく』の生成』(山本眞功著 平凡社 2015。名著! 大好き!)で読んだなぁ、とか、福沢諭吉が『学問のすゝめ』で、〈明治で起こる変化はみなさんには想像できんでしょうが〉みたいなことを丁寧に説いていたなぁ、とか、以前読んだ本の意味が連鎖的に思い出されたりして、豊かな読書時間でした。書かれている内容に、建設的な反論・批判・賛同ができるだけの素養が私にあれば、もっと豊かに読めるんでしょうが、それはもちろん無く。

 浅野さんの本でも森さんの本でもマックス・ウェーバーが評価されていたので、一度ちょっと手に取ってみようと思います。難しすぎてすぐ投げ出す可能性が大、ですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?