『失われた近代を求めて』 橋本治

 「帰って来た橋本治展」を見に行ってから少し橋本さんづいていて、今回取り上げる『失われた近代を求めて』上下巻の前には、『親子の世紀末人生相談』を読んでいました。
 『親子』はタイトル通り、雑誌読者からの相談に橋本さんが答える体裁の本です。

 で、その中に「橋本さんは女言葉を使われますが……」みたいな前振りで始まる相談があって、それに対して「誤解があるようだけど、私が使っているのは子供の言葉です」みたいな返しと、そこから展開される〈どんな言葉で書くか・話すか〉〈どんな言葉をどんな風に使うかが自己表現だ〉みたいな回答をされる回がありました(図書館にもう返却しちゃったのでウロ覚えです……すいません)。
 それを読みながら私は、「東京生まれの東京育ちで、標準語ネイティブな人というのも苦労するのだな」と思っていました。

 数十年ぶりの再読である『親子』の、初読時には全く印象に残っていなかったこの記述が今回は感慨深く読めてしまうのは、私が、ビートたけしさんの本(タイトル失念…)を読んで〈東京弁で漫才する苦労〉を知り、増山実『甘夏とオリオン』を読んで〈非関西圏の人が上方落語を語る苦労〉を知り(当時の感想は「大阪な小説3冊」に書きました)、桂二葉さんの落語を聞いて〈大阪弁ネイティブの落語家が上方落語を語る圧倒的なしっくり感〉〈何をどう喋っても大阪弁になっている揺るぎなさ〉を目の当たりにし、そしてまたそのことを友達に話したときに、「いままでその自覚がなかったの?!」と驚かれた経験によるところが大きい。ちなみにその友達は義務教育年代に非関西から関西へ引っ越しし、方言の苦労を身をもって知っている。一方の私は、府内の移動はあったものの、大阪弁圏内から移ったことがない。
 そしてこれはたけしさんの本にあった説明だったか・語学系の師匠から聞いた話だったか忘れましたが、公式の言葉は、長らく都だった京都が基本になっているので、江戸の言葉も標準語もその元には京都の言葉遣いがある。そして大阪はその京都に近いから、大阪弁はイントネーションは土着だけど、語彙はほとんど標準語と一致する。だから大阪を含む関西圏の言葉だけが、土着の言葉でそのまま全国に通じる漫才ができる、みたいな話をずいぶん以前に読んだか聞いたかして大いに納得したことがあったのでした。

 で、『親子』に続いて読み始めた『失われた近代を求めて』では、上巻冒頭で〈言文一致体〉が語られます。おもしろかったのはここでも、二葉亭四迷が〈音調がつまらないから書き言葉の日本語はイヤ→東京弁の三遊亭円朝の語りを参考にする→ネイティブ性が足りないから式亭三馬を参考にする〉と、よりコテコテの東京弁に向かっていく姿が書かれていて、「やぁっぱり標準語ネイティブの苦労ってあるのだなあ」の思いを強くしました。


 『失われた近代を求めて』は〈日本の近代文学〉に焦点を据えた論評で、途中までは、現在流通している文学史の区分・捉え方に異議を唱える本なのかと思ってました。
 異議、といっても面倒なのは、〈この区分はここではなくその手前にするべき〉とか〈この人はあっち派でなくこっち派にするべき〉といった部分的異議・マイナーチェンジ的な訂正要求どころでなく、〈根本的に、そもそも区分の基準自体がまずい〉というフルモデルチェンジ的やり直しを迫る異議なので、大変です。……まあ、橋本さんらしいと言えば、いつも通りとも言えますが。

 ポイントになるのは〈和語〉〈漢語〉はあって〈西洋語〉は無かった日本語において、〈近代思想〉〈西洋近代小説〉をどう受容し翻訳するのか? どんな作品を新たに日本語で創作するのか?で、明治に入って文体の摸索が始まる。日本の歴史において文体の摸索が試みられたのは明治が初めではないから、その前例である〈漢語が入ってきたとき〉と〈純然たる漢語から離れつつあるとき〉はどうだったのだ?が問題にされて、とりあえず『古事記』と『日本書紀』、それに続いて慈円の『愚管抄』が検討される。この辺りまでの焦点は、〈書き言葉と話し言葉の距離感の整理〉に据えられている、と思います。
 ——思いますが、そこから第二部・第三部へと移っていくにしたがって、〈新しい文体の必要〉〈その文体の成熟度〉〈書き手の表現したいこと〉〈文章における書き手の存在感〉などを取り上げるうち、決定的に明らかになってしまうのが、〈巧い人が書けば、文語体だろうが言文一致体だろうがやっぱり巧い!〉の現実で、文体による文学史的区分が成立しなくなる。
 でもだからと言って評論家が自分たちの思い入れを基に作り流通させた〈自然主義〉〈浪漫主義〉といった、曖昧で恣意的な区分が的確とは思えない。

 結果、橋本さんなりの新たな区分とか文学史の扱い方が提案されることはなく、〈改めて・覚悟を持って、近代の再受容に臨むこと〉が提案されて『失われた近代を求めて』は終わる。

 何だかごちゃごちゃ~と話が広がった挙句に幸田露伴『五重塔』から夏目漱石へとバトンタッチされて唐突に決着する感じのこの最終章のヒントは、下巻217ページの、
 ◎社会変革をするには、「人は皆同じ」を前提とする。
 ◎日本の近代文学は、「私は人とは違う、人は皆同じではない」を前提とする。
 ◎日本の前近代は、「人は皆同じで、人はそれぞれに皆違う」と理解する。そこの矛盾をへ(屁)とも思わない。
という対比なのだろうと思います。
 そしてこの辺りのことは、実はこれ以前にたまたま私が読んでいたもう一冊、『いま私たちが考えるべきこと』でも考えられていたことなのでした。うーん、これは……『失われた近代を求めて』上下2冊だけでは完結しない話、ということか。でも『いま私たち』のほうが出版が早いんだけどな……。

 なんかイマイチ、筋が通ったような・通らないような本だったな……と思いながらあとがきを読んで、納得しました。この評論の全体自体が、筑摩書房から出ていた「明治文学全集」全100巻の読書感想文だった、ということなのね!? なんちゅうこと……。ていうか、先に言ってよ……。


 『親子の世紀末人生相談』 橋本治 フィクション・インク 1985年
 『失われた近代を求めて』上下 橋本治 朝日新聞出版 2019年
    (同じ出版社から出ていた3巻本の2分冊版)
 『甘夏とオリオン』 増山実 角川書店 2019年
 『いま私たちが考えるべきこと』 橋本治 新潮社 2004年

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