「帰って来た橋本治展」と私の納得

 神奈川近代文学館で6月2日まで開催の「帰って来た橋本治展」に行ってきました。高校時代にエッセイというか評論というかを初めて読んで、「自分の頭で考えろ、自分の頭と身体でもって経験して考えて判断しろ、そしてそのためにはたくさんたくさん勉強しろ。私も、そうしている」と身をもって体現される姿を目の当たりにして力づけられて以来の〈師匠〉なので、既にもう30年間くらい?紙の中の師匠だったことになります。
 作家・評論家・イラストレーターであり、戯曲も書いてセーターも作ってと多才なかたですが、著作だけでも膨大な量に上るので、私は全部どころか半分、3分の1も読んでいないと思います。でも、恩ある大事な師匠です。

 展示は、2室に分かれていました。最初の部屋は著作の直筆原稿とその資料、その他。次の部屋はイラストの原画、切り絵、セーターの作品とその製図、着ておられた服が数点、そして若い人に向けた著作とその直筆原稿がいくつか。
 イラストは、歌舞伎系の絵は印刷・画集で見たことがあったけれど、雑誌の表紙と切り絵が私的にはすごかった。同じ人が描いたと思えないくらい色々な画調の表紙絵、そして切り絵は実に繊細で美しい。
 直筆原稿は、手書きでこれだけ書きましたという単純な物量にまずは圧倒されますが、資料がこれまたすごい。『桃尻語訳枕草子』のために作られた語彙カードはとても几帳面なもので、大胆な着想ながら天才のひらめき一発で書かれたものではなく、地道な作業に裏付けられた翻訳・逐語訳だったのよなあと改めて思うし、『双調平家物語』のための巻き物型年表には、出来事が箇条書きに書かれるだけでなく、資料Aと資料Bの記述のどちらが妥当そう、とか、そうであればたぶんこの間の事情はこうだったはず、とか、橋本さんの推測・想像まで書き込まれていて、興味深い。ここまでの予備作業がきちっと出来ているからこそ、修正の少ない手書き原稿がダ――ッと作れるのだろうな、と、納得。

 多様多数の展示のうち、私にとって一番重要だったのは、未完に終わることになる『少年軍記』の、編集者への中断願いの手紙だったと思います。
 『少年軍記』は東大闘争を題材にした小説で、主人公は聡子。タイトルは〈少年軍記〉だけど主人公を女性が務めるところがミソで、闘争の総括を〈男性・個人〉がするのでなく、〈女性・個人〉がすることによって〈男性・複数あるいは男性・全体〉がまとめて救われる、というのが当初の構想だったそうです。けれどこのまま書き進めると、どう転んでも〈女性・個人〉が自分だけ納得して(=救われて)終わる物語にしかならない。だから書けない、というのが手紙の趣旨でした。

 で、ここからが私なりの解釈というか納得の話になるのですが、これまで読んだ本・文章などのあれこれを継ぎ接ぎしながら納得したことですので、出典とかは示せません。展示会の内容とも外れます。ああ、〈個人の感想〉ね、と思ってお読みくださると助かります。

 『少年軍記』の手紙を読んで腑に落ちたのは、橋本さんの引っかかり部分がどこであったかがわかった気がしたからです。それはつまり、〈荒野に一人ですっくと立っているのが自立した個人だ=近代自我の確立〉と、〈どんな人とでも仲良くしなければなりませんよ=商家の子の心得〉の間の葛藤だったのでないか。そしてそのどちらもが長男・跡取り息子の側面から〈男〉の特性につながり、そこから隔絶されている〈女〉との違いに意識は向かう。橋本さんの特に初期の論述に〈男とは〉〈女とは〉的な切り口が割に多いのは、そしてその切り口が大抵、一般的なジェンダー論みたいなのと異なることが多いのは、論の焦点が飽くまで〈男ゆえの近代自我の確立〉〈跡取り息子ゆえの商家の子の心得〉への不満というか窮屈さへの反発にあったからでないか、と思いました。

 隣を振り返ったときに誰もいないのは寂しい、みたいなことは何かに書かれていたと記憶するので、連帯への欲求は確かにある。でもこの欲求は、近代自我の確立に逆行する。
 一方で、家とか地域を度外視した、自分自身の基準で作られた〈好き・嫌い〉ははっきりおありだから、誰彼構わずみんなと連帯することはきっと生理的に受け付けない。でもこれは商家の心得に反する。
 ただこれは長所と短所を読みかえて、〈連帯への欲求=商家に必要な特性が備わっている〉〈自分の基準で好き・嫌いがある=近代自我はすでに確立している〉と取れば悪い方向とばっかりは言えないとも思うけれど、そうは思えなかったのかな、と。
 だから、『少年軍記』でも当初は〈男性・複数あるいは男性・全体〉をまとめて救おうと目論んだ。

 そしてこの葛藤の一つの転機というか区切りになった出来事と私が思うのは、少年誌だったか「プレイボーイ」誌だったかで人生相談をされていて、読者から差別的に罵倒されたのを受けて突然連載を中止されたことです。これは、現にいじめに遭うなど苦しい状況にいる若い読者に向けての、「嫌なときは迷わず逃げろ!」のメッセージであると同時に、ご自身の〈誰彼構わずみんな救う〉方向性との訣別だったのではないか。
 だから、その後も『少年軍記』は書かれることなく、名もなき人の救済・鎮魂の物語を多数書かれながらも、〈誰彼構わずみんな〉を救う話にはならなかった。『巡礼』『橋』『リア家の人々』を〈昭和三部作〉と括られるのを好まなかった、というのもそれにつながるのかな、と。〈名もなき人びと〉の代表としての〈個人〉ではあっても、〈昭和という時代〉とか〈一般大衆の全体〉ではない、それはもう目指さない、ということかも、と思いました。

 こう理解すると私は納得できるけれど、「この理解は合ってますか?」とはどうやっても訊けないのが悲しい。とはいえ、まあ、ご存命ならきっと公開されない手紙でしょうから、それを読んでの感想も出てくることはなかったはずで、その諸々が、〈亡くなった〉ということなのだな、と改めて思います。

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